Ambras Castle 1560 -

 ヴラド三世は15世紀に生きたワラキア公国(ルーマニア南部)の君主です。冷酷で非情とも思える統治をしていた為、串刺し公(ヴラド・ツェペシュ)、ドラキュラ公とも呼ばれていました。
 ヴラド三世は1431年にヴラド二世の次男として生まれました。彼が十代の時に、弟と共にオスマン帝国の人質となります。その三年後に父と兄が暗殺され、ヴラディスラフがワラキア公の地位に付きますが、ヴラド三世が帝国を利用して、君主の座を奪います。一度は失脚したものの返り咲いたヴラド三世は、反対派の貴族を虐殺し、権力の絶対化を進めました。彼は支援者だったオスマン帝国に反逆し、使者を串刺しにして返したので、帝国との戦争が始まりました。帝国のメフメト二世がワラキア公国へ攻め込んできた際、ヴラド三世はゲリラ戦や焦土作戦を使って反抗し、彼の兵士を大量に串刺しにして見せつけました。メフメト二世はこのショッキングな光景によって戦意を失い、撤退したとされています。

 しかし、今度はオスマン帝国がヴラド三世の弟ラドゥを支援し、ヴラド三世を失脚させます。彼は落ち延びた先のハンガリー王に捕らえられ、12年間幽閉されてしまいます。解放後、ヴラド三世は正教会からカトリックに改宗し、立て直しを図り、三度目のワラキア公になることができたものの、1476年にオスマン帝国と戦って戦死してしまいます。享年45歳でした。
 権力や国土の為なら残酷なことも辞さない、恐ろしきヴラド三世に関係する絵画13点をご覧ください。

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「アンブラス城にある肖像画  1560年」
一番有名なヴラド三世の肖像画。くるくるロングの髪と髭。。目は
二重でぱっちり、鼻は鷲鼻です。被っている帽子の宝石や胸のボタンが
煌びやかですね。
Ambras Castle 1560

フォルヒテンシュタイン城にある肖像画  17世紀」
剣と棍棒を握り締めているヴラド三世。あだ名「ドラキュラ公」の由来は、
彼の父ヴラド二世のあだ名が「ドラクル」で、ドラクルの息子だから
ドラキュラと呼ばれたそう。彼はこの二つ名を気に入っており、よく
用いられたとされています。
17th  Forchtenstein Castle

「ドイツ書籍の木版画  1488年」
串刺し公の名前の由来は表現そのままで、彼は頻繁に串刺し刑を
用いました。通常は重罪を犯した者に用いられる処刑法を、彼は
敵国兵、自国民、貴族にも使いました。
Vlad on the title page of a German 1488

「作者年代不詳」
彼の逸話には過激なものが多く、気に喰わない貴族達を酒宴に招待
して虐殺したり、オスマン帝国の使者の頭を釘打ちにしたり、串刺にしたり、
貧者や病人たちを焼き討ちにしたりします。ヴラド三世の伝説は誇大的な
ものもありますが、かなり恐ろしい人物であったようです。
Vlad III l'Empaleur

「作者不詳  15世紀」
ヴラド三世のお父さん、ヴラド二世(ドラクル公)の壁画。なんだかエセ
中国人のように見えてしまってすみません。東欧のスラヴ人のはず
なのに、アジア人に見えてしまう不思議・・・。
A portrait of Vlad Dracul 15th

「テオドール・アマン 作  1831‐91年」
ヴラド三世と謁見するオスマン帝国の使者の絵画。
この後、使者の運命やいかに・・・。
Vlad the Impaler and the Turkish envoys  Theodor Aman

「作者不詳  15世紀」
メフメト二世の肖像。小さなお花を嗅いで、なかなかロマンチストですね。
彼はワラキア進行をしましたが、兵士たちが大量に串刺しになっている
のを目の当たりにして、戦意喪失。そのまま撤退します。
部下の串刺しだらけを見たら、誰だって逃げたくなりますよ。
Ottoman Sultan, Mehmed II 15th ワラキア進行

「テオドール・アマン作  19世紀」
オスマン帝国とヴラド三世の戦争を描いた作品。ワラキアは小規模な
国でしたが、ゲリラや焦土などの戦術を駆使して、大軍を退けました。
ヴラド三世は激情的な独裁者というよりも、冷酷無情な策略家といった
感じですね。
オスマン帝国との闘い 19th テオドール・アマン

「ドイツの書籍の木版画  1499年」
串刺し林の悲惨な場面の中、ヴラド三世はのんきに食事を取っています。
彼は「被害者の血肉を喰らっていた」という恐ろしい噂もありますが、
それは彼を陥れようとした悪口の可能性が高いです。
ヴラド三世ならやりかねない部分もありますが・・・。
1499 German woodcut

「ドイツ書籍の木版画  15世紀」
こちらも同じテーマの版画作品。従者と思われる人物が斧で
ばさばさと切っている感じが恐ろしいです・・・。
中世のリアルじゃない抽象的な絵だからこそシュールになっています。
ドイツ

「スロベニアのリュブリャナの絵画  1463年」
ヴラド三世は悪者の代名詞のように考えられ、とんでもない場所に
登場するようになります。キリストの死刑を宣告したピラトがヴラド三世
の顔になっています。(ピラトは後に改宗しておりますが・・・)
Vlad III  Pilate  Ljubljana, 1463

「中世絵画 作者不詳  1470-80年」
左側に薄い顔のヴラド三世がいます。聖アンドレアスの殉教を描いた
場面で、ヴラド三世はローマ帝国の植民地総督を表しています。
宗教に仇なす相手はみんなヴラドに変えてしまえといった感じですね。
聖アンドレアス ローマ帝国植民地総督 1470-80

マリア・アム・ゲシュターデ教会にある絵画  1460年」
ヴラド三世を探せ!
キリストの磔刑を描いた作品ですが、右にヴラドらしき人物がいます。
ユダヤの族長と会話しているローマ総督な感じですかね・・・?
Calvary of Christ, 1460, Maria am Gestade, Vienna

 串刺し公については以前から知っておりましたが、詳しく調べたのは今回が始めてでした。私は「世襲でワラキア公になったヴラド三世は、敵対していたオスマン帝国と戦い、そのやり方が残虐であった」だと勝手に思っていました。そうしたら、全然違う。ヴラド三世は権力の為なら身内も惨殺して、オスマン帝国でさえも利用する、やり手の野望家だったのですね。
 国内紛争や権力争いは、この時代にはよくあったことなんでしょう。中世西洋はドロドロの逸話がいっぱいありますし、紀元前のクレオパトラでさえ権力争いで兄弟を殺害していますし・・・。ヴラド三世は後に、国の増強に貢献した、英雄としても考えられ再評価されています。彼のように気性の激しい人でなければ、そこまでのし上がれなかったのかもしれませんね。

→ クレオパトラの人生について知りたい方はこちら


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