
聖ウルスラは4世紀頃に生きたとされる、ブリタニア出身の伝説の聖女です。
「黄金伝説」によると、ブリトン人の王の娘であったウルスラは、異教徒であるイングランドの王子に求愛されます。彼女は結婚を承諾する条件として、「キリスト教徒に改宗する」「十人の同伴者と11000人の乙女を集める」「ローマへの巡礼の旅に出る」という約束を取り付けました。王子は了承し、ウルスラは11000人の乙女を連れてローマへ巡礼の旅に出かけたのです。
無事にローマ巡礼を果たした一行でしたが、帰り道に悲劇が訪れます。ケルン(ドイツ)で北アジアの遊牧騎馬民族であるフン族に襲われ、11000人の乙女と共に虐殺されてしまったのでした。ウルスラと乙女たちはケルンで丁重に葬られ、聖ウルスラ教会が建立されたそうです。
罪なく殺されたウルスラと乙女たちの絵画13点をご覧ください。
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「ヴィットーレ・カルパッチョ作 1495-1500年」
ウルスラは求婚したイングランド王子に「キリスト教の改宗、
ローマへの巡礼、同伴者を付ける」という三つの条件を出します。
彼はOKし、巡礼の後に結婚式を挙げることになったのでした。
ウルスラと王子の出会いと出立が描かれています。

「ヴィットーレ・カルパッチョ作 1490年」
無事にローマ巡礼を終え、ケルンへと到着したウルスラ一行。
しかし、そこで悲劇が待ち受けていたのでした・・・。
武器を持った男達がたむろしており、不穏な雰囲気です。

「ヴィットーレ・カルパッチョ作 1493年」
ケルンを包囲していたフン族によって、ウルスラと大勢の乙女達は
殺されてしまったのでした。見にくいですが、殉教場面とウルスラの
葬儀の場面が描かれています。カルパッチョさんはこの物語に
思い入れがあったようで、8枚もの作品が残されています。

「マグダラのマリアの伝説のマスターの工房作 1520年」
ウルスラに弓矢を向けるフン族たち。その恐怖の状況にも毅然と
した態度で立ち向かっています。乙女と同伴者達はうろたえている
ようですね。

「聖ウルスラの伝説のマスター作 1492-96年」
乙女の死体が転がる無残な状況の中、聖ウルスラは中央で
後光を輝かせて立っています。傍らにいるのは乙女じゃなくて
男性のように見えるのですが・・・。婚約者は一緒について来て
いなかったような。やっぱり乙女の一人なのかな?

「ハンス・メムリンク作 1489年」
北方ルネサンスの巨匠メムリンクもこの画題を描いています。
至近距離で矢を撃ち込まれようとしているウルスラ。
おじさん達が寄ってたかって女性に攻撃しようとするなんて、
伝説にしたって残酷すぎますね。

「聖ウルスラの聖遺物箱 全体像 1489年」
上記のメムリンクの作品は、こちらの聖遺物箱の手前に描かれて
います。この聖ウルスラの聖遺物を納めたとされる容器は、
ベルギーにあるメムリンク美術館(聖ヨハネ施療院)にあるそう。
人生に一度は見てみたい美しい作品ですね!

(画像元)
「ドイツ出身の画家作 16世紀」
11000名の乙女と共に船に乗っている聖ウルスラ。右側は
ローマ巡業の際の教皇だと思いますが、既にフン族が女性の
一人を襲うとしています。異時同図法でシナリオ展開が高速ですw

「Lorenzo Pasinelli 作 1629-1700年」
潔白を表す白い旗を掲げる聖ウルスラと、殉教をしていく乙女達。
作者はバロック時代ですが、約100年後に萌芽するロマン主義の
ドラクロワを彷彿とさせる作品です。

「バーナード・ストロッツィ作 1581-1644年」
ものすごく至近距離で矢を撃ち込まれる聖ウルスラ。
上記のような悲劇の中にも気丈さや気高さが感じられる作品とは
異なり、死の瞬間の悲劇さ、劇的さが前面に表現されています。

「シュテファン・ロッホナー作 1430年」
これらの物語の影響で、ウルスラのアトリビュート(持物)は矢と
乙女とされています。左手に持っているのは棕櫚の葉で、これは
殉教の象徴です。ウルスラのマントに隠れる可愛らしい乙女達。

「聖バルバラの伝説のマスター作 1470-1500年」
胸に矢を撃ち込まれたウルスラの元に集う乙女と聖職者たち。
天使達も天幕を引っぱるお手伝いです。

「ヴィットーレ・カルパッチョ作 1491年」
ウルスラを中央にして、頭上には神、足元には複数の乙女達。
11000名を描いてやる!という作者の意気込みが感じられる
ようです。(流石に画面に入れるのは不可能ですが・・・^^;)

「フランシスコ・デ・スルバラン作 1598-1664年」
乙女達や棕櫚の葉などは一切排し、ただ一本の矢でウルスラを
表現しているシンプルな作品。「私はこの矢で殉教したの」と
私達に訴えかけているようですね・・・。

古典的なフランドル絵画には、「マグダラのマリアの伝説のマスター」「聖ウルスラの伝説のマスター」「聖バルバラの伝説のマスター」という名前で紹介されている事があります。それは実際の名前が分かっておらず、研究者達が分類しやすいよう、便宜上つけられた名前なのです。なので、「マグダラのマリアの伝説のマスター」はマグダラのマリアの作品を描いており、それがそのまま名前となってしまった感じです。
研究者が「この聖ウルスラの作品は、あのマグダラのマリアの時代と筆致が似ているな。同一人物なのかな。よし、調査したところ同じ作者っぽいから、マグダラのマリアの伝説のマスター作としておこう」と言った感じなのだと思います。
マスターは絵画工房のトップを担っていた者のことで、参考書によって「親方」と訳されていましたが、この記事ではそのままマスターと表記させていただきました。今後の研究が進むにつれて、もしかしたら彼等の本名が判明するのかもしれませんね^^
→ ハンス・メムリンクについての絵画を見たい方はこちら
→ アトリビュートについての絵画を見たい方はこちら
→ ヴィットーレ・カルパッチョの聖ウルスラの絵画、8枚全てを見たい方はこちら〈英語〉
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>> 季節風様へ
こんばんは^^
まさに「信仰の為に殉教した」という感じですよね。
現代の感覚だと「一度に11000名もの乙女が虐殺されるのは変だから、この物語は伝説だ」と感じるかもしれませんが、治安が悪く部族間争いが激しかった時代なので、そうとは断言できない部分がありますよね。
命を散らした乙女は案外多く、ウルスラさんがその乙女の代表を務めたのかもしれません。
1、3枚目のカルパッチョさんの作品、調べてみたら横幅5~6mあるようです。
目の当りにしたらさぞかし壮観でしょうね。
いえいえ。喜んでいただけてこちらも何よりです^^