メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

絵画

ノートルダムの鐘の絵画13点。男女の愛憎悲劇を描いた、ヴィクトル・ユゴーの小説

Luc-Olivier Merson 1846-1920 -

 ノートルダム・ド・パリ(ノートルダムの鐘)は、19世紀のフランスロマン主義の小説家ヴィクトル・ユゴーの物語です。
 舞台は15世紀のパリ。ノートルダム大聖堂の前に醜い赤ん坊が捨てられており、助祭長であるフロロが育てます。赤ん坊はカジモドと名付けられ、ノートルダムの鐘付きとして成長しました。ある日、パリにジプシーが現れ、フロロはその中の美少女エスメラルダを愛してしまいます。信仰と愛の板挟みになったフロロは、遂にカジモドを利用して彼女を誘拐しようとしました。

 計略は失敗し、カジモドは捕らえられて彼女は衛兵フェビュスと付き合うようになります。捕まったカジモドは街でさらし者になっていましたが、エスメラルダだけは彼を庇った為、恋心を抱くようになりました。フロロはエスメラルダを諦めきれず、二人が逢引きしている場へ行き、フェビュスを刺して逃げます。彼女はフェビュスを重体にした濡れ衣を着せられ、魔女裁判により死刑が下されました。

 カジモドはエスメラルダを救出してノートルダム大聖堂にかくまいましたが、フロロは暴動を誘導して混乱を引き起こして彼女を誘拐。自分の愛人となるか、死刑となるかを選択させます。エスメラルダは後者を選び、衛兵に引き渡されて処刑されてしまいました。その光景をノートルダムの塔から笑いながら見ていたフロロを、怒ったカジモドは突き落として殺してしまいます。
 その数年後、処刑場の後から白骨死体が出てきて、その横には異様な骨格をした白骨が寄りそっていました。それらを離そうとすると、粉々に砕けてしまったそうです。
 登場人物がほぼ全滅。悲劇の物語であるノートルダムの鐘の絵画13点をご覧ください。

bottan_03_01

ネルソン提督の絵画13点。トラファルガーの海戦で戦死した、隻眼隻腕の英国の英雄

Portrait of Lord Horatio Nelson by Friedrich Heinr -

 ホレイショー・ネルソン(1758-1805)はイギリスの海軍提督です。アメリカ独立戦争やナポレオンとの戦争にて活躍しました。イギリス史上最大の英雄とされています。
 イングランドのノーフォークにある村の牧師の息子として生まれたネルソンは、父が病弱で貧困だった為に、12歳の時に母方の叔父を頼って海軍へと入隊しました。19歳で昇進試験に合格し、翌年には艦隊の指揮を任されるようになり、カリブ海周辺の諸島を守護しました。30歳の時には未亡人フランシス・ニズベットと結婚します。

 フランス革命の勃発により、地中海方面へ行ってフランス軍と戦争。砂が右目に入って視力を失ってしまいます。1796年には戦隊司令官に命ぜられて翌年には昇進を果たしますが、カナリア諸島のテネリフェ島の戦闘で負傷して右腕を切断し、ネルソンは隻眼隻腕の提督となってしまったのでした。

 その後もネルソンの勢いは止まらず、フランスやデンマークとの海戦に勝利を収めます。そして、1805年には運命のトラファルガーの海戦が行われたのです。フランス・スペインの連合艦隊との海戦に、ネルソンは全く怯むことなく前線に出て戦い、完全勝利を果たしました。これによりナポレオン1世の英国上陸の野望は打ち砕かれたのです。しかし、その代償としてネルソンは敵の銃弾を受けて命を落としたのでした。
 英雄ネルソン提督の絵画13点をご覧ください。

bottan_03_01

「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」へ行ってきました!一族だらけの展覧会

ブリューゲル展1 -

 2018年5月25日(金)に、愛知県の豊田市美術館で開催されている「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」へ行ってきました!出展された作品は101点。その中の約8割がブリューゲル一家の作品でした。正にブリューゲルのブリューゲルによるブリューゲルの為の展覧会で、これでもかというくらいこの一族を知れる展覧会となりました(笑)
 記事を書くのが遅れてしまいましたが、詳細をご覧ください!

bottan_03_01

エマ・ハミルトンの絵画13点。画家のモデルにして、ネルソン提督の愛人となった美女

LadyHamilton ヴィジェ・ルブラン 1790 -

 エマ・ハミルトン(1765-1815)は、イギリスの絵画モデルであり舞踏家。ネルソン提督の愛人として知られています。
 彼女はイングランド北西部のチェシャ―州に生まれ、早くに父を亡くして母に育てられました。本名はエイミー・ライオンであるものの、エマ・ハートと改名して家政婦として働きましたが、その美しさと性に奔放であったせいで辞職が続きました。17歳になった頃にはロンドンの名士の愛人となり、絵画モデルとしても働いていました。

 その後、エマは貴族チャールズ・グレヴィルの愛人となり、彼の友人の画家ジョージ・ロムニーに何枚かの絵画を描いてもらっています。別の女性と婚姻したグレヴィルが、エマをイタリアのナポリのサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの元へ連れていくと、彼はエマを深く気に入り、公式に結婚する事に決めました。エマはナポリで演技や踊りを混ぜ込んだ見世物を披露し、その魅力は国に広まって王妃マリア・カロリーナとも親しくなりました。

 それから、エマは特使としてやって来たホレーショ・ネルソン提督と、夫公認の愛人関係となりました。エマが36歳の時にネルソンとの娘ホレイシアを出産したものの、二年後に夫ウィリアムが亡くなり、ネルソンは出征してしまいます。残された彼女は寂しさのあまり浪費に走り、ネルソンが戦死した時には財産が残っていませんでした。それどころか借金が重なって家を取り上げられ、借金した者の監獄に入れられてしまいます。負債から逃れる為にエマはフランスへ渡ったものの、酒に溺れて50歳の若さで亡くなってしまいました。
 麗しの栄誉からどん底へ。絶世の美女エマ・ハミルトンを描いた絵画13点をご覧ください。

bottan_03_01

運命の女神フォルトゥナの中世絵画13点。全人類の車輪を操る、表裏一体の女神

1503 Type  manuscrit Langue  Français Format  Vélin -

 フォルトゥナはローマ神話における運命の女神です。ギリシャ神話ではテュケーに相当し、幸運の女神ともされています。
 フォルトゥナは元々豊穣を司る女神で、ローマの東にあるプラエネステという土地で信仰されていたそうです。ローマ王がその信仰を自国へと持ち込み、フォルトゥナはローマ神話に組み込まれる事となりました。通常、フォルトゥナは巨大な車輪を持ち、不安定な球などに乗った姿で描かれることがありますが、中世時代になると、運命の女神は神話の枠を超えて様々な姿で表現されるようになります。想像の翼は広がり、元々の形式から外れたとんでもない姿の女神様も・・・。
 老若男女、貧富、身分も見境なく、全人類の運命を操る運命の女神の中世絵画12点+αをご覧ください。

bottan_03_01

中世彩飾写本の不可思議な怪物14点。きもかわいい愉快なモンスターたち【第二弾】

 1325-1340 -

 中世時代、写本は「写字生」と呼ばれる修道院に属する修道士がせっせと書いていました。
 多くの修道院には写字を行う「写字室」が建てられ、君主や教会に依頼された本を手掛けていました。場所によっては羊皮紙の製作から製本まで、彩飾写本の作製の全てを行っていたようです。キリスト教の教義を伝える手段にもなる為、写字は修道院の大事な仕事であったのと同時に 、写本を貴族たちに売ることで貴重な収入源にもなっていました。
 彩飾写本はその名の通り、字だけではなく様々な装飾や挿絵が入れられています。その殆どは物語に関連した挿絵なのですが、中にはどうしてこんな怪物がいるの!?と思われるへんてこりんなモンスターが現れます。
 写字生のストレス発散なのか、趣味なのかは不明ですが、とにかく不思議でキモカワイイ怪物14点をご覧ください!

bottan_03_01

若さの泉の絵画14点。老人が入ると青年へ。願望から伝説が生まれた若返りの泉

formerly attributed to Cristoforo de Predis 1450-65 -

 「若さの泉」は、入るだけで老人が瞬く間に若返るとされた伝説の泉です。「若返りの泉」「青春の泉」とも呼ばれています。
 西洋でいつ頃伝説が普及したかは定かではありませんが、中世時代にはあったようです。元々、水は不思議な力を持つと考えられており、新生児を水に浸ける洗礼が行われていました。また、新約聖書でキリストが「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう」と語っており、原罪の贖いの為に流した血液と結び合わされ、泉はキリストや生命の象徴とされていました。こうした泉に対する神秘思想は一般に広がり、ずっと過去より存在した「泉に入ると若返えって青春を取り戻す」という伝説が普及するに至ったのです。
 「若さの泉」の作品は中世頃にも見られますが、ルネサンスと19世紀の象徴主義や近代絵画に流行し、何枚かの絵画が残されています。では、若さの泉についての絵画14点をご覧ください。

bottan_03_01

西洋画家10人の本名はこちら!エル・グレコやボッティチェリ、ボスはあだ名だった

Parmigianino_Selfportrait 1523-24 -

 現代における芸能人や画家、エンターテイナーは芸名や通名を用い、本名を名乗らない者がおります。それは歴史上の画家も同様で、私達が現在普通に呼んでいる名が、実はあだ名という画家もいるのです。通名で呼ばれている画家はルネサンス時代が多く、その名の意味も、呼ばれるようになった経緯も実に様々です。
 では、フラ・アンジェリコやボッティチェリ、エル・グレコやヒエロニムス・ボスなどの10名の画家達の本名と、あだ名の由来を見ていきたいと思います!

bottan_03_01

ベアトリーチェ・チェンチの絵画11点。父の乱暴ゆえに殺害し、処刑された悲劇の少女

attributed to Reni or Sirani  1662 -

 ベアトリーチェ・チェンチ(1577-99年)はローマの貴族で、父親を殺害したとして処刑されてしまった悲劇の女性です。
 父親はフランチェスコで後妻はルクレツィア・ペトローニ、兄はジャコモ、末弟はベルナルド。一家はイタリアのローマにあるチェンチ宮に住んでいました。フランチェスコは周囲から暴力的で不道徳とみなされていましたが、貴族という階級により罪を免れていました。父は息子と妻を虐待し、ベアトリーチェに乱暴を働きました。彼等は被害を訴えましたが、裁判局は何も動いてはくれなかったのです。思い詰めた結果、彼等は父親を殺害する事を決意します。

 1598年、フランチェスコに麻薬を盛って殺そうとするものの失敗。やむなく家族は金槌を使って父を殴り殺してから、遺体をバルコニーから落としました。彼等は事件を隠匿しようとしましたが、殺人がばれてしまい、有罪で死刑を宣告されてしまいます。恩赦を主張したローマの人々の努力も虚しく、サンタンジェロ城の橋で兄ジャコモは四つ裂きの刑に会い、ルクレツィアとベアトリーチェは斬首の刑に処されてしまいます。末弟のベルナルドだけが罪を免れたものの、家族の処刑を見せられたとされています。

 そんな悲劇の家族の話は周囲に広まり、グイド・レーニ(または Elisabetta Sirani)派の人はこちらを振り返る薄幸そうなベアトリーチェ・チェンチの肖像を描きました。すると、何名かの画家がこちらを見つめる眼差しや儚い雰囲気に魅了され、類似作が生まれるようになりました。この作品により、彼女の名が後世に伝わったと言っても過言ではありません。
 では、ベアトリーチェ・チェンチに関わる絵画11点をご覧ください。1点だけ閲覧注意がございます。

bottan_03_01

祭壇画の開閉した全貌はこちら。ゲントやイーゼンハイム、最後の審判などの外側

Isenheim altarpiece - First view -

 中世ルネサンス時代に多く製作され、美しく教会や修道院を飾った祭壇画。
 二連、三連、多翼型と色々祭壇画にも種類があります。翼状になった祭壇画は畳むことができ、ミサを行っていない時間は閉じられていたそうです。もちろん閉じられた部分にも絵が描いてあるのですが、私達が美術の本やネットで観られる祭壇画は開けられたものが多く、閉じた絵画はあまり知られていないのではないでしょうか。
 今回は8点の祭壇画の閉じられた部分をご紹介したいと思います。

bottan_03_01
プロフィール
aicon

管理人:


中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

button

メメント・モリについて

アーカイブ
記事検索
記事検索
  PR
【異形の怪物LINEスタンプ】
line logo2


ブログランキング・にほんブログ村へ

―最新記事をお届け―

buttons

buttons - コピー (2)

buttons - コピー

PC用広告