メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

絵画

西洋画家10人の本名はこちら!エル・グレコやボッティチェリ、ボスはあだ名だった

Parmigianino_Selfportrait 1523-24 -

 現代における芸能人や画家、エンターテイナーは芸名や通名を用い、本名を名乗らない者がおります。それは歴史上の画家も同様で、私達が現在普通に呼んでいる名が、実はあだ名という画家もいるのです。通名で呼ばれている画家はルネサンス時代が多く、その名の意味も、呼ばれるようになった経緯も実に様々です。
 では、フラ・アンジェリコやボッティチェリ、エル・グレコやヒエロニムス・ボスなどの10名の画家達の本名と、あだ名の由来を見ていきたいと思います!

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ベアトリーチェ・チェンチの絵画11点。父の乱暴ゆえに殺害し、処刑された悲劇の少女

attributed to Reni or Sirani  1662 -

 ベアトリーチェ・チェンチ(1577-99年)はローマの貴族で、父親を殺害したとして処刑されてしまった悲劇の女性です。
 父親はフランチェスコで後妻はルクレツィア・ペトローニ、兄はジャコモ、末弟はベルナルド。一家はイタリアのローマにあるチェンチ宮に住んでいました。フランチェスコは周囲から暴力的で不道徳とみなされていましたが、貴族という階級により罪を免れていました。父は息子と妻を虐待し、ベアトリーチェに乱暴を働きました。彼等は被害を訴えましたが、裁判局は何も動いてはくれなかったのです。思い詰めた結果、彼等は父親を殺害する事を決意します。

 1598年、フランチェスコに麻薬を盛って殺そうとするものの失敗。やむなく家族は金槌を使って父を殴り殺してから、遺体をバルコニーから落としました。彼等は事件を隠匿しようとしましたが、殺人がばれてしまい、有罪で死刑を宣告されてしまいます。恩赦を主張したローマの人々の努力も虚しく、サンタンジェロ城の橋で兄ジャコモは四つ裂きの刑に会い、ルクレツィアとベアトリーチェは斬首の刑に処されてしまいます。末弟のベルナルドだけが罪を免れたものの、家族の処刑を見せられたとされています。

 そんな悲劇の家族の話は周囲に広まり、グイド・レーニ(または Elisabetta Sirani)派の人はこちらを振り返る薄幸そうなベアトリーチェ・チェンチの肖像を描きました。すると、何名かの画家がこちらを見つめる眼差しや儚い雰囲気に魅了され、類似作が生まれるようになりました。この作品により、彼女の名が後世に伝わったと言っても過言ではありません。
 では、ベアトリーチェ・チェンチに関わる絵画11点をご覧ください。1点だけ閲覧注意がございます。

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祭壇画の開閉した全貌はこちら。ゲントやイーゼンハイム、最後の審判などの外側

Isenheim altarpiece - First view -

 中世ルネサンス時代に多く製作され、美しく教会や修道院を飾った祭壇画。
 二連、三連、多翼型と色々祭壇画にも種類があります。翼状になった祭壇画は畳むことができ、ミサを行っていない時間は閉じられていたそうです。もちろん閉じられた部分にも絵が描いてあるのですが、私達が美術の本やネットで観られる祭壇画は開けられたものが多く、閉じた絵画はあまり知られていないのではないでしょうか。
 今回は8点の祭壇画の閉じられた部分をご紹介したいと思います。

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オディロン・ルドンの絵画17点。幻想的で不気味な世界観を手掛けるフランスの画家

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 オディロン・ルドン(1840-1916)は、幻想的で個性あふれる作品を手掛けたフランスの画家です。
 本名はベルトラン・ジャン・ルドン。名は父から由来しているものの、ルドンは母の愛称「オディーユ」からとった「オディロン」という名前を終始用いていました。彼は南フランスの都市ボルドーで裕福な家庭に生まれた次男でしたが、母親は長男を溺愛しており、ルドンは生後二日目にして田舎町ペイル・ルバードへ里子に預けられます。11歳になるまで親元を離れて寂しい思いをして育ったルドンは、絵を描いたり、森を歩いたり、本を読んだりして一人遊びをする内向的な子供となりました。

 厳しい父の言いつけで建築家の試験を受けたものの不合格となり、20歳の頃に植物学者と知り合って微生物の魅力に憑りつかれたルドンは版画を手掛けるようになります。24歳の頃に単身パリへ出た彼は何人かの芸術家の指導を受けました。普仏戦争を生き延びた後はパリで定住し、カミーユ・ファルグと結婚します。個展の開催や画集を出したルドンは徐々に名が売れていくようになりました。彼の作風は独特で、誰も真似ができないものでした。ルドンは孤独な心に住まう無意識を作品に反映させたのです。

 ルドンが46歳の時に待望の長男ジャンが生まれたにも関わらず、直ぐに亡くなってしまいます。この頃の画風はかなり暗く、鬱々としたものでした。しかし、3年後に次男アリが誕生した事でルドンの作風は一変します。色彩が踊るかのようなカラフルなパステル画を手掛けるようになったのです。世間からも作品が認められ、現代美術の最先端として有名な展覧会にも出品しました。ルドンの最期は風邪による免疫力の低下でした。元々病弱だったのと、次男アリが従軍して行方不明となった為に心配が祟ったのでした。死後もルドンの作品は人々に不思議な感覚を与え続け、シュールレアリスト達は彼を偉大な先駆者として見なしているのです。
 では、オディロン・ルドンの絵画17点をご覧ください。

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フォルスタッフの絵画14点。シェイクスピアのヘンリー四世に登場する、強欲な老騎士

Falstaff with a Tankard of Wine and a Pipe  Mihály Zichy -

 フォルスタッフはシェイクスピアの戯曲「ヘンリー四世 一部&二部」と「ウィンザーの陽気な女房たち」に登場する老騎士です。
 大酒飲みで肥満体、臆病者で好色、強欲で嘘つき、追い剥ぎをするごろつきの悪人という、ダメダメな騎士ですが、頭が切れてユーモアに富み、たまに真相を突いた警句を吐くという深遠な一面も持ち合わせています。そのギャップは開演当初から多くの人に愛され、フォルスタッフはシェイクスピアの物語から飛び出して多くの二次創作が作られ、現代でも語り継がれております。

 「ヘンリー四世」によると、フォルスタッフはヘンリー四世の息子ハル王子の放蕩仲間で、飲んだくれて遊び呆けていました。ある日、ノーサンバランド伯の者達はヘンリー四世に謀反し、戦争を起こします。王は王子に鎮圧を命じ、ハル王子は名誉挽回の為にホットスパーを一騎打ちの末に倒します。ずっと逃げ回っていたフォルスタッフはホットスパーを倒したのは自分の手柄だと主張しますが、その嘘は見破られてしまうのでした。

 ホットスパーの死にノーサンバランド伯は怒り、応戦してきました。フォルスタッフは判事のシャロ―を頼って、兵士を募ったものの、役に立たない者ばかり。ハル王子の弟ジョン王子の策略で謀反者達は捕まり、処刑によって反乱は鎮圧されたものの、ヘンリー四世は重病に伏せり、ハル王子に王冠を託して息絶えてしまいます。王位を授かってヘンリー五世となった彼は、馴れ馴れしく話し掛けて来たフォルスタッフを拒絶し、罪で投獄してしまったのです。その後、フォルスタッフはフランスまで放浪したあげく、汗かき病によって死んでしまったとされています。
 愛すべき悪人、憎めないごろつきであるフォルスタッフの絵画14点をご覧ください。

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サーカスの絵画15点。アクロバティックな技で観客を楽しませる曲芸師たちの姿

Circus by George Bellows, 1912 -

 様々な芸や技で観客を魅力し、楽しませる見世物サーカス。
 古代ギリシャやエジプトでは、ジャグリングなどをパフォーマンスする曲芸師がいました。そして、古代ローマの円形競技場で曲芸が催されるようになり、円形を意味する「circle」がサーカスの語源となったようです。(諸説あり)  現代のようなサーカスの形となったのが1770年のイギリスで開催された、「アストリー・ローヤル演芸劇場」とされています。退役軍人のフィリップ・アストリー(1742-1814年)という者が動物芸、曲芸に加え、道化師という概念を新しく取り入れ、白塗りの顔にぶかぶかの服という道化の姿がサーカスには欠かせない要素の一つとなったのです。
 サーカスに関する絵画はやはり18世紀後半~19世紀後半あたりが多く、画家達にとって生まれ変わったサーカスは目新しいものに映ったのだなぁと思います。
 ではサーカスについての絵画15点をご覧ください。

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アレクサンドロス大王の絵画14点。ペルシア、エジプトを統一したマケドニアの英雄王

Alexander The Great Founding Alexandria by Placido Costanzi -

 アレクサンドロス3世(紀元前356-323年)はマケドニア王国の君主です。通称、アレクサンドロス大王と呼ばれています。
 彼はギリシャの伝説の英雄ヘラクレスとアキレスを先祖に持つとされ、ピリッポス2世とイピロスの王女オリュンピアスとの間に生まれました。高名な哲学者アリストテレスを家庭教師に持ち、アレクサンドロス大王は高い教養を身につけました。18歳の時に父親に連れられてアテナ・テーバイと戦争し、勝利を飾ります。しかし、その二年後に父は護衛によって暗殺されてしまいます。

 若くして王位に付いたアレクサンドロス大王。王座を狙う敵を排除し、遠征して全ギリシャを制圧します。その二年後にはペルシアへ遠征して快進撃を続けながら東へ進み、西アジア一部である小アジアを征服します。そのまま南下していき、ペルシアの統治下にあったエジプトへ入ったアレクサンドロス大王は、そこも征服してしまいます。エジプト人に歓迎された彼はファラオとして認められ、アレクサンドロス大王にちなんだ神像や都市が建てられます。その後、彼はペルシア帝国を滅亡させ、中央アジアへと進出していきます。遊牧民達と戦いながらインドへと進みましたが、兵の疲弊により進軍は中断。

 バビロンへと戻ったアレクサンドロス大王はマケドニア、ペルシア、ギリシャの三つの地域を統治しようと、同君連合を作りました。しかし、アラビア遠征を考えていた最中、夜の祝宴中に蜂に刺されて倒れてしまいます。高熱に10日間苦しんだアレクサンドロス大王は、「最強なる者へ帝国を渡す」と言い残して亡くなってしまったのです。彼の死後、異母兄と息子の二人が統治しようとしたものの二人とも暗殺され、アレクサンドロス大王が統治させた帝国は三つに分裂してしまったのでした。
 紀元前の大英雄、アレクサンドロス大王の絵画14点をご覧ください。

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消失した絵画13点。火事や地震、戦争や盗難により永遠に見られない幻の絵画

Raphael Sanzio  Raffaello 1483 - 1520 Portrait of a Young -

 現在、全国各地に美術館があり、沢山の絵画を鑑賞することができます。
 しかし、人間の長い歴史から生まれ出た作品から考えると、それらはほんの一部であり、火事や地震、戦争やテロ、盗難などで数多くの絵画が永遠に失われてきました。天災は避けようがないですし、宗教争いの人為的な破壊が今でも行われ続けています。また、美術品の盗難による被害額は、麻薬・武器輸出についで第三位だそうです。盗難された作品が見られるデータベースには約45000件もの登録がしてあるそうです。(2014年末の数字なので、もっと増えているかもしれません) 恐ろしい数字ですよね・・・。
 画家が丹精込めて、人生をかけて描いた作品が、思想に合わないからというだけで燃やされ、金になるからという理由で盗まれて売られるのです。本当にあってはならない事だと思います。池上英洋著『「失われた名画」の展覧会』と、サイモン・フープト著『「盗まれた世界の名画」美術館』の二冊の本を参考文献にして、永遠に失われた名画13点をお届けします。

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ジークフリートの絵画14点。北欧神話のシグルズを起源とした、ドイツの英雄

Ferdinand Leeke    Siegfried forges the sword -

 ジークフリートはドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」の英雄で、北欧神話の「ヴォルスンガ・サガ」の英雄シグルズと起源が同じと考えられております。
 ネーデルラントのジークムント王とジークリント王妃との間に生まれた彼は、若い時に悪竜を倒すという偉業を成します。その際に魔力を含んだ竜の血を浴びて不死身となりましたが、背中の一点に葉っぱが張り付いて血が付かず、そこだけが弱点となってしまったのでした。

 大人となったジークフリートはブルグント国のグンター王の妹クリームヒルトに求婚しようと思い立ち、国へ渡ります。戦争で多くの手柄を立てた彼は王に認められるものの、アイスランドの王女ブリュンヒルトとグンター王との結婚が成立するよう手助けを頼まれます。ブリュンヒルトは求婚者と競技を行い、彼女が勝てば男を殺し、負ければ結婚すると宣言していたのです。姿を消す魔法の隠れ蓑を使ってジークフリートはグンター王を助け、ブリュンヒルトに勝利して結婚を承諾させます。ジークフリートはクリームヒルトと結婚し、父の後を継いで王となりました。

 何年か経ったある日の事。ブルグントの王宮でグンター達と再会したジークフリートに悲劇が訪れます。クリームヒルトとブリュンヒルトがどっちの夫が強いかで口喧嘩を始めてしまい、クリームヒルトが「競技をやったのは王じゃなく、姿を消していたジークフリートだったのよ!」と本当の事をばらしてしまいます。重鎮ハーゲンは王や王妃の名誉に傷が付くことを恐れ、ジークフリートの暗殺を計画します。言葉巧みにグンター王を説得したハーゲンは「背中の一点だけが生身である」という事をクリームヒルトから聞き出しました。そして、ジークフリートが泉の水を飲もうとかがんだ時、槍で突き刺して殺してしまったのでした。怒り狂ったクリームヒルトはハーゲンへの復讐を決意し、この悲劇が皮切りとなって多大の犠牲を出しながらブルグントは滅亡してしまうのです・・・。
 ジークフリートについての絵画14点をご覧ください。
 

 
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シグルズに関する絵画14点。竜を倒しヴァルキリーの愛憎を受ける北欧神話の英雄

Sigurd and Brunhild   Harry George 1920 -

 シグルズは北欧神話の「ヴォルスンガ・サガ」に登場する英雄です。
 彼は英雄シグムンドとヒョルディースの間に生まれました。戦争で夫を失ったヒョルディースはデンマークの王子と再婚しました。シグルズはレギンの元で養育され、青年になるとレギンに「財を成したいなら竜ファヴニールを倒せ」と催促されます。「まずは父の仇を討たせてくれ」と返したシグルズは、鍛え直した名剣グラムを使って父を殺したフンディング一族を滅ぼします。次に彼は養父の言う通りファヴニールを退治して財を手に入れますが、竜の心臓の脂を舐めて動物の言葉が分かる魔力を手に入れたことで、シジュウカラが「レギンは宝を独りじめしようとシグルズを裏切ろうとしている」という会話が聞こえたのです。彼はレギンを殺し、財宝の一部を持って旅に出ました。

 シグルズは炎に守られた館でヴァルキリーのブリュンヒルデを発見し、恋に落ちて結婚を誓い合います。しかし、ギューキの宮廷に着いたシグルズは、王妃グリームヒルドの策略によって忘れ薬を飲まされてブリュンヒルデの事を忘れてしまい、王女グズルーンと結婚してしまいます。ブリュンヒルデもシグルズの手引きによって王子グンナルと結婚する事となりました。
 しかし、ブリュンヒルデは誓いを忘れ自分を欺いたシグルズに激怒し、復讐を考えます。シグルズはかつての記憶を取り戻し、ブリュンヒルデとよりを戻そうとしましたが時既に遅し。妻を失いたくないグンナルは弟にシグルズの暗殺を頼み、眠っているところを襲わせました。彼は暗殺者と相打ちとなり、息絶えてしまいます。ブリュンヒルデは悲しみの内にシグルズの遺体を炎で焼き、自身の身もその中へ投じたのでした。
 悲劇の英雄シグルズにまつわる作品14点をご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
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