メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

絵画

シェイクスピア作マクベスの絵画16点。血塗られた王は魔女達の予言通りに絶命する

 Buchel (1872–1950) -

 「マクベス」は1606年頃にシェイクスピアによって書かれた戯曲です。実在のスコットランド王であるマクベスをモデルとしており、「ハムレット」「オセロ」「リア王」と並び、四大悲劇とされています。
 ダンカン王に仕える将軍マクベスとバンクォーは戦争に勝利を収めました。その帰り道に三人の魔女と出会い、マクベスは「いずれ王になる方」バンクォーは「子孫が王となろう」と伝えられます。マクベスは武勲によりコーデの領主となり、王になることを期待しました。しかし、王は息子マルカムを継承者にすることを決め、彼は失意の中で王を暗殺することを考えます。それを後押ししたのは妻でした。まだ迷いがあるマクベスを叱咤し、暗殺計画を練りました。かくして二人は宴会途中で寝室へ忍び込み、短剣でダンカン王を殺してしまったのです。

 遺体が発見されて城内は騒然となり、二人の王子は危険を感じて国外へ逃げます。それが原因で王子に犯人の嫌疑がかけられ、マクベスが王を務めることになりました。王となった彼は喜びますが、バンクォーの予言に強い不安を覚えます。マクベスはバンクォーと息子フリーアンスに刺客を送り、殺害しようとするものの、息子は逃げ延びます。マクベスと夫人は次第に精神を病んでいき、マクベスは暴君と化していきました。安心を得ようと現王は魔女の元へ再び赴きます。「女の股から産まれた者はお前を倒せない。バーナムの森が来ない限り安全だ」という予言を受け、彼はこんな予言は実現しないだろうとほっとしました。一方、貴族のマクダフはマルカム王子の元へ訪れ、マクベス討伐の策を練っていました。

 マクベス王の元へ進撃してくるマグダフとマルカム王子の軍。その軍は木の枝を隠れ蓑として利用しており、その姿はまるで森のようでした。予言が実現してうろたえるマクベス。そして夫人は夢遊病を患い、自らの罪を嘆いて衰弱して死んでしまいます。自暴自棄になって戦場へ赴くマクベスの元へ、マグダフが現れました。「女の股から出た者に私は倒せないぞ!」と言うと、彼は「私は母の腹を破って出たのだ!」と告げます。激闘の末にマクベスは命を落とし、マルカム王子がスコットランド王となったのでした。
 では、権威の虜になって狂気に陥ったマクベスと夫人の絵画16点をご覧下さい。

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ハムレットの恋人オフィーリアの絵画13点。理性を失って命を落とした悲劇の女性

Ophelia di Arthur Hughes, 1863 -

 オフィーリアはシェイクスピアの四大悲劇の「ハムレット」に登場する王子ハムレットの恋人です。彼が狂気を装って父親を殺したせいで理性を失い、川へ流されて亡くなってしまいました。
 現王を暗殺して父親の復讐を果たす為に狂ったふりをしているハムレットを、オフィーリアはとても心配します。それなのに彼は暴言を吐き、「修道院へ行け」と言って彼女を酷く傷つけます。悲しむオフィーリアに追い打ちをかけるように、父親である宰相ボローニアスがハムレットに殺されたことを知ります。狂ってしまった恋人と父親の死。悲哀は最長に達し、正気を失ってしまいました。

 オフィーリアは歌を歌ったり、取り留めもないことを口走ったり、皆に花を配ったりし、フランスから帰国した兄レアティーズの姿さえ分からなくなってしまいました。そのまま彼女はふらふらと柳の木がある小川のほとりへ行き、枝に花輪を吊るそうと手を伸ばして登ろうとしました。しかし、枝は無惨にも根元から折れ、彼女はキンポウゲ、イラクサ、デイジー、蘭で作られた花輪もろとも川へと落ちてしまったのです。気がふれていたオフィーリアは水から上がろうとせず、歌やうわごとを零しながら人魚のように川を漂っていました。そのまま彼女は沈んでいき、こと切れてしまいました。彼女の死は登場人物の誰もが悲しみ、ハムレットは己の行動を深く後悔し、彼女への強い愛を今更ながらに気付いたのです。
 儚き悲劇の女性、オフィーリアの絵画13点をご覧ください。

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シェイクスピアの悲劇ハムレットの絵画12点。狂気を装う王子が父の復讐を果たす

Pedro Américo -

 「ハムレット」は1600年頃に書かれた、シェイクスピア作の悲劇です。
 デンマーク王が急死をすると、弟クローディアスが王位に就き、王妃と結婚します。父親の死と母の再婚に深く悲しむ王子ハムレットは、従者から夜に王の亡霊が現れると聞き、その場へ向かいます。父の亡霊に会ったハムレットは「私は弟に毒殺をされた」と真実を告げられました。彼は父親の復讐の為に狂気を装い、事件の証拠を掴もうと探りを入れます。王子の変貌に人々は心配し、宰相ポローニアスは娘オフィーリアに原因を突き止めるよう言いました。彼女はハムレットの恋人でした。そんなオフィーリアにも王子は冷たく当たり、彼女は深く傷付きます。

 やがて、毒殺の証拠を掴んだハムレットでしたが、母と会話をしているところを聞いていたポローニアスを刺し殺してしまいます。そして、オフィーリアは重なる悲劇に心を乱し、事故で溺死をしてしまい、兄であるレアティーズは怒り狂い、父と妹の仇を取ろうと考えます。王クローディアスもレアティーズと結託してハムレットを殺そうと画策します。毒剣と毒入りの酒を用意し、剣術試合に招いてハムレットを殺そうとしたのです。しかし、毒の酒を王妃が誤って飲んで死亡、ハムレットとレアティーズは毒剣で互いを傷付けてしまいます。ハムレットはレアティーズと和解してクローディアス王を殺し、この事を後世に伝えて欲しいと親友に頼み、命を落とします。
 四代悲劇の中の一つに数えられる、ハムレットの絵画12点をご覧ください。

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「レオナルド・ダ・ヴィンチとアンギアーリの戦い」の展覧会が日本を巡回中!

レオナルド

 現在、レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンンギアーリの戦い」展が広島県で開催されております!
 この展覧会は2015年の東京展から始まり、三年の時をかけて8県を巡る予定であるようです。既に4県は終了してしまい、残りが4県となっております。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品が見られる貴重な展覧会となるので、非常に気になるところ。
 さっそく詳細を見ていきましょう!

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ローマの慈愛キモンとペロの絵画15点。獄中で瀕死の父に、娘が母乳を与える物語

Peter Paul Rubens 1612 -

 「ローマの慈愛(Roman Charity)」と呼ばれているこの物語は、父親に対する娘の献身的な愛を象徴しています。
 時代は古代ローマまでさかのぼり、歴史家ワレリウス・マキシムスが書いた「忘れざる行為の9冊の書とローマ人の言葉」に記録されています。餓死の刑に処されている父親キモンは食糧を与えられず、死の寸前にありました。そこへ居場所を探し出した娘ペロが現れ、死にかけている父に自らの母乳を与えます。彼女の行為は看守によって発見されてしまいますが、この献身的な行為は看守の心を動かし、父親の解放を得ることができたとされています。
 この物語はローマ時代から何名もの画家に描かれ、17~18世紀頃に最も多く描かれました。キモンとペロの絵画、15点をご覧ください。

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オーギュスト・ルノワールのマイナー絵画15点。こんな作品も描いた印象派の巨匠

Pierre-Auguste_Renoir Diana als Jägerin 1867 -

 ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)はフランスの印象派の画家です。
 彼はリモージュという町に生まれ、3歳の時にパリに移りました。十代の時に磁器の絵付きや扇子の装飾などの仕事を行い、20歳の時に画家になろうと決意。アカデミズム絵画を手掛けるシャルル・グレールの塾に入り、そこでモネやバジールらと出会い、23歳の時にサロンで初入選を果たします。普仏戦争の後にモネやピサロと共に「第一回印象派展」を行いますが、結果は厳しい批判を受けました。二回、三回の印象派展は芳しくはなかったものの、徐々にファンが現れるようになります。37歳の時に再びサロンに応募したところ入選し、印象派展からは距離を置くようになります。
 
 その二年後にアルジェリアとイタリアを旅行し、古典的な作品に感銘を受けたルノワールは、明確な線を描くようになります。ですが、自らの画風は違うと思った彼はまた温かみのある風合いの裸体画を描き、その頃にはルノワールの名声は高まっていました。しかし、56歳の時に自転車事故でリウマチを発症、以後は病気と闘いながらの作品制作となります。晩年は南フランスに移り住み、家族や風景、裸婦などをモチーフにして数々の作品を生み出しました。名声は西洋中に広がり、マティスやピカソなど若き画家が自宅訪問したと伝えられています。その頃彫刻にも興味を抱き、彫刻デッサンを手掛けるようになります。4000点以上作品があるとされる多産の画家ルノワールは、1919年12月に肺の血液が異常に増える肺うっ血という病により亡くなりました。享年78年でした。

 ルノワールの作品は光に満ちた風景画や人物画、水浴画が多いですが、趣向を変えて神話や物語に関連した、ちょっとマイナーな作品をご紹介したいと思います。あくまでも主観的なものなので、「これメジャーじゃん!」と思ってもお許しください。
 では、ルノワールのマイナーな作品15点+αをご覧ください。

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ディエゴ・ベラスケスの絵画14点。バロックを代表するスペイン黄金時代の巨匠

Portrait of Innocent X Oil 1650 -

 ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)は、バロック時代における画家です。17世紀スペインの最も偉大なる画家と言っても過言ではなく、多くの画家に影響を与えています。
 ベラスケスは南部の都市セビリアに生まれ、11歳頃に画家のフランシスコ・パチェーコに弟子入りしました。彼の仕事の呑み込みは早く、18歳の時には独立し、室内の情景や静物画を手がけました。翌年には師匠の娘フアナと結婚します。24歳に首都マドリードへ二度目の旅行した際、国王フェリペ4世の肖像画を描くことになりました。その出来栄えを気に入った王は彼を宮廷画家に任命し、それから37年間、ベラスケスは宮廷画家として働きました。

 彼の作品の特徴として、服のしわや装飾品、背景などを粗いとも言えるタッチで描くのに、遠目で見ると立体的、写実的に見えることです。「何でこのように見えるの?」と不思議に思ってしまう程、リアルに立ち現れてくるのです。それにより印象派の画家マネは彼のことを「画家の中の画家」と呼んで称賛したそう。ベラスケスは同時代の巨匠ルーベンスとも親交を持ち、イタリア旅行へと行った後、宮廷画家だけではなく王宮の重役に就くようになります。しかし、1660年にフランス国王ルイ14世の婚礼の準備をしていた際、突然病に倒れて亡くなってしまいます。享年61歳でした。
 独断と偏見に基づいてチョイスした、ベラスケスの絵画14点+αをご覧ください。

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ピーテル・パウル・ルーベンスの絵画15点。バロックを代表するフランドル界の巨匠

Boreas abducts Oreithya - by Peter Paul Rubens -

 ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)はバロック期に活躍したフランドルの画家、外交官です。
 両親は迫害によりベルギーのアントウェルペンからドイツへと避難し、そこでルーベンスを生みました。彼が10歳の時に父親が亡くなり、故郷へと戻ります。そこでルーベンスは様々なことを学び、貴族の未亡人の小姓となります。芸術の才能を認められた彼は画家組合に入会し、当時の主要な画家に指導を受けながら先代の作品の模写を徹底して行うことで、一人前の画家となりました。23歳の時にイタリアへ向かい、ルネサンスの巨匠の作品を吸収し、古代ギリシャの作品を学びました。その三年後には外交官としてスペイン王フェリペ3世の元へ赴き、絵画の制作依頼を受けながら各地を転々としました。しかし、ルーベンスが31歳の時に母親が亡くなり、アントウェルペンへ帰郷。ネーデルラント君主の妃イサベルの宮廷画家となった彼は故郷に工房を持ち、幾多の依頼を受けました。

 弟子を入れたルーベンスの工房は組織化し、中には美術館や図書館がありました。ルーベンスが構図や下絵、仕上げを施し、弟子が拡大や中途作業を行いました。弟子の特性を理解し、任せる者を景色や動物によって変え、賃金は描いた分量により決めていたそうです。弟子の中で一番頭角を現したのがアンソニー・ヴァン・ダイクで、共同制作する時もありました。その後、ルーベンスは外交官を行いながら各地で肖像画や連作を手掛け、国際的に有名となりました。晩年は故郷周辺で仕事をしながら暮らしていましたが、痛風を患っていた彼は1640年5月に心不全により亡くなりました。現在故郷の聖ヤーコプ教会に静かに眠っています。
 ルーベンスの作品は数限りなくあり、どれを紹介して良いか迷ってしまいましたが、あえてあまり観たことがないマイナーそうなものを選びました。作品は年代順に並んでいます。では、バロック時代の多産の巨匠ルーベンスの絵画15点をご覧ください。

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近代絵画の父ポール・セザンヌのダークな作品16点。感覚の実現を追究した画家

Paul Cézanne - Young Man With a Skull -

 ポール・セザンヌ(1839-1906)はフランス出身のポスト印象派の画家です。
 ロマン主義的な作風を手掛けた後、印象派グループに在籍しておりましたが、独自の画風を確立してピカソやマティス、ブラックなどの現代画家に強い影響を与えました。その為「近代絵画の父」と称されています。セザンヌといえば机と果物が描かれた静物画や風景画、水浴画などがよく知られていますが、油絵約900点、水彩画約350点、デッサン約350点のとても多くの作品を残しています。

 彼は1860~70年代を中心して、暴力や死、女性の神秘や美、誘惑をテーマにして描きました。実際のモデルを用いず、想像だけで描く「構想画」を使ってロマン主義的な絵画を描き、内面の感情を強調しようとしたのです。その後、モネやルノワールが属する印象派と出会って風景画や水浴画、人物画を手掛けるようになりますが、印象派の者達が光の表現や時間の色合いの推移を表現しようとしたのに対し、セザンヌは「感覚の実現」にこだわりました。対象をそのまま模写せず、自らの感覚を通して世界を構築しようとしたのです。印象派から離れた後は静物画と人物画に精を出すようになりました。また、晩年にはヴァニタスを主題とした頭蓋骨が置かれた絵画も制作しております。
 今回は初期の頃のロマン主義的なテーマの作品と、晩年のヴァニタス画を紹介していきいたいと思います。ダーク系の絵画ばかりで見るポール・セザンヌの絵画16点をご覧ください。

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東京「アルチンボルド展」へ行ってきました!混雑状況やショップ、感想を語ります!

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 8月29日(火)に東京の国立西洋美術館で開催されている「アルチンボルド展」を見に、一人旅をしてきました!
 野菜や魚、お花などを寄せ集めて肖像画を描いた奇才の画家ジュゼッペ・アルチンボルド。彼の斬新な作品は多くの追随者を生み出し、後の様式に大きく影響を与えました。今回の展覧会は全作品が92点、アルチンボルドの作品が27点、更にはレオナルド・ダ・ヴィンチの素描が見られるという豪華な内容でした!
 では、混雑状況や感想、ショップ情報などをお伝えしていきます!

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プロフィール
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管理人:


中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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