メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

絵画

オディロン・ルドンの絵画17点。幻想的で不気味な世界観を手掛けるフランスの画家

spirit-of-the-forest-1890 -

 オディロン・ルドン(1840-1916)は、幻想的で個性あふれる作品を手掛けたフランスの画家です。
 本名はベルトラン・ジャン・ルドン。名は父から由来しているものの、ルドンは母の愛称「オディーユ」からとった「オディロン」という名前を終始用いていました。彼は南フランスの都市ボルドーで裕福な家庭に生まれた次男でしたが、母親は長男を溺愛しており、ルドンは生後二日目にして田舎町ペイル・ルバードへ里子に預けられます。11歳になるまで親元を離れて寂しい思いをして育ったルドンは、絵を描いたり、森を歩いたり、本を読んだりして一人遊びをする内向的な子供となりました。

 厳しい父の言いつけで建築家の試験を受けたものの不合格となり、20歳の頃に植物学者と知り合って微生物の魅力に憑りつかれたルドンは版画を手掛けるようになります。24歳の頃に単身パリへ出た彼は何人かの芸術家の指導を受けました。普仏戦争を生き延びた後はパリで定住し、カミーユ・ファルグと結婚します。個展の開催や画集を出したルドンは徐々に名が売れていくようになりました。彼の作風は独特で、誰も真似ができないものでした。ルドンは孤独な心に住まう無意識を作品に反映させたのです。

 ルドンが46歳の時に待望の長男ジャンが生まれたにも関わらず、直ぐに亡くなってしまいます。この頃の画風はかなり暗く、鬱々としたものでした。しかし、3年後に次男アリが誕生した事でルドンの作風は一変します。色彩が踊るかのようなカラフルなパステル画を手掛けるようになったのです。世間からも作品が認められ、現代美術の最先端として有名な展覧会にも出品しました。ルドンの最期は風邪による免疫力の低下でした。元々病弱だったのと、次男アリが従軍して行方不明となった為に心配が祟ったのでした。死後もルドンの作品は人々に不思議な感覚を与え続け、シュールレアリスト達は彼を偉大な先駆者として見なしているのです。
 では、オディロン・ルドンの絵画17点をご覧ください。

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フォルスタッフの絵画14点。シェイクスピアのヘンリー四世に登場する、強欲な老騎士

Falstaff with a Tankard of Wine and a Pipe  Mihály Zichy -

 フォルスタッフはシェイクスピアの戯曲「ヘンリー四世 一部&二部」と「ウィンザーの陽気な女房たち」に登場する老騎士です。
 大酒飲みで肥満体、臆病者で好色、強欲で嘘つき、追い剥ぎをするごろつきの悪人という、ダメダメな騎士ですが、頭が切れてユーモアに富み、たまに真相を突いた警句を吐くという深遠な一面も持ち合わせています。そのギャップは開演当初から多くの人に愛され、フォルスタッフはシェイクスピアの物語から飛び出して多くの二次創作が作られ、現代でも語り継がれております。

 「ヘンリー四世」によると、フォルスタッフはヘンリー四世の息子ハル王子の放蕩仲間で、飲んだくれて遊び呆けていました。ある日、ノーサンバランド伯の者達はヘンリー四世に謀反し、戦争を起こします。王は王子に鎮圧を命じ、ハル王子は名誉挽回の為にホットスパーを一騎打ちの末に倒します。ずっと逃げ回っていたフォルスタッフはホットスパーを倒したのは自分の手柄だと主張しますが、その嘘は見破られてしまうのでした。

 ホットスパーの死にノーサンバランド伯は怒り、応戦してきました。フォルスタッフは判事のシャロ―を頼って、兵士を募ったものの、役に立たない者ばかり。ハル王子の弟ジョン王子の策略で謀反者達は捕まり、処刑によって反乱は鎮圧されたものの、ヘンリー四世は重病に伏せり、ハル王子に王冠を託して息絶えてしまいます。王位を授かってヘンリー五世となった彼は、馴れ馴れしく話し掛けて来たフォルスタッフを拒絶し、罪で投獄してしまったのです。その後、フォルスタッフはフランスまで放浪したあげく、汗かき病によって死んでしまったとされています。
 愛すべき悪人、憎めないごろつきであるフォルスタッフの絵画14点をご覧ください。

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サーカスの絵画15点。アクロバティックな技で観客を楽しませる曲芸師たちの姿

Circus by George Bellows, 1912 -

 様々な芸や技で観客を魅力し、楽しませる見世物サーカス。
 古代ギリシャやエジプトでは、ジャグリングなどをパフォーマンスする曲芸師がいました。そして、古代ローマの円形競技場で曲芸が催されるようになり、円形を意味する「circle」がサーカスの語源となったようです。(諸説あり)  現代のようなサーカスの形となったのが1770年のイギリスで開催された、「アストリー・ローヤル演芸劇場」とされています。退役軍人のフィリップ・アストリー(1742-1814年)という者が動物芸、曲芸に加え、道化師という概念を新しく取り入れ、白塗りの顔にぶかぶかの服という道化の姿がサーカスには欠かせない要素の一つとなったのです。
 サーカスに関する絵画はやはり18世紀後半~19世紀後半あたりが多く、画家達にとって生まれ変わったサーカスは目新しいものに映ったのだなぁと思います。
 ではサーカスについての絵画15点をご覧ください。

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アレクサンドロス大王の絵画14点。ペルシア、エジプトを統一したマケドニアの英雄王

Alexander The Great Founding Alexandria by Placido Costanzi -

 アレクサンドロス3世(紀元前356-323年)はマケドニア王国の君主です。通称、アレクサンドロス大王と呼ばれています。
 彼はギリシャの伝説の英雄ヘラクレスとアキレスを先祖に持つとされ、ピリッポス2世とイピロスの王女オリュンピアスとの間に生まれました。高名な哲学者アリストテレスを家庭教師に持ち、アレクサンドロス大王は高い教養を身につけました。18歳の時に父親に連れられてアテナ・テーバイと戦争し、勝利を飾ります。しかし、その二年後に父は護衛によって暗殺されてしまいます。

 若くして王位に付いたアレクサンドロス大王。王座を狙う敵を排除し、遠征して全ギリシャを制圧します。その二年後にはペルシアへ遠征して快進撃を続けながら東へ進み、西アジア一部である小アジアを征服します。そのまま南下していき、ペルシアの統治下にあったエジプトへ入ったアレクサンドロス大王は、そこも征服してしまいます。エジプト人に歓迎された彼はファラオとして認められ、アレクサンドロス大王にちなんだ神像や都市が建てられます。その後、彼はペルシア帝国を滅亡させ、中央アジアへと進出していきます。遊牧民達と戦いながらインドへと進みましたが、兵の疲弊により進軍は中断。

 バビロンへと戻ったアレクサンドロス大王はマケドニア、ペルシア、ギリシャの三つの地域を統治しようと、同君連合を作りました。しかし、アラビア遠征を考えていた最中、夜の祝宴中に蜂に刺されて倒れてしまいます。高熱に10日間苦しんだアレクサンドロス大王は、「最強なる者へ帝国を渡す」と言い残して亡くなってしまったのです。彼の死後、異母兄と息子の二人が統治しようとしたものの二人とも暗殺され、アレクサンドロス大王が統治させた帝国は三つに分裂してしまったのでした。
 紀元前の大英雄、アレクサンドロス大王の絵画14点をご覧ください。

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消失した絵画13点。火事や地震、戦争や盗難により永遠に見られない幻の絵画

Raphael Sanzio  Raffaello 1483 - 1520 Portrait of a Young -

 現在、全国各地に美術館があり、沢山の絵画を鑑賞することができます。
 しかし、人間の長い歴史から生まれ出た作品から考えると、それらはほんの一部であり、火事や地震、戦争やテロ、盗難などで数多くの絵画が永遠に失われてきました。天災は避けようがないですし、宗教争いの人為的な破壊が今でも行われ続けています。また、美術品の盗難による被害額は、麻薬・武器輸出についで第三位だそうです。盗難された作品が見られるデータベースには約45000件もの登録がしてあるそうです。(2014年末の数字なので、もっと増えているかもしれません) 恐ろしい数字ですよね・・・。
 画家が丹精込めて、人生をかけて描いた作品が、思想に合わないからというだけで燃やされ、金になるからという理由で盗まれて売られるのです。本当にあってはならない事だと思います。池上英洋著『「失われた名画」の展覧会』と、サイモン・フープト著『「盗まれた世界の名画」美術館』の二冊の本を参考文献にして、永遠に失われた名画13点をお届けします。

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ジークフリートの絵画14点。北欧神話のシグルズを起源とした、ドイツの英雄

Ferdinand Leeke    Siegfried forges the sword -

 ジークフリートはドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」の英雄で、北欧神話の「ヴォルスンガ・サガ」の英雄シグルズと起源が同じと考えられております。
 ネーデルラントのジークムント王とジークリント王妃との間に生まれた彼は、若い時に悪竜を倒すという偉業を成します。その際に魔力を含んだ竜の血を浴びて不死身となりましたが、背中の一点に葉っぱが張り付いて血が付かず、そこだけが弱点となってしまったのでした。

 大人となったジークフリートはブルグント国のグンター王の妹クリームヒルトに求婚しようと思い立ち、国へ渡ります。戦争で多くの手柄を立てた彼は王に認められるものの、アイスランドの王女ブリュンヒルトとグンター王との結婚が成立するよう手助けを頼まれます。ブリュンヒルトは求婚者と競技を行い、彼女が勝てば男を殺し、負ければ結婚すると宣言していたのです。姿を消す魔法の隠れ蓑を使ってジークフリートはグンター王を助け、ブリュンヒルトに勝利して結婚を承諾させます。ジークフリートはクリームヒルトと結婚し、父の後を継いで王となりました。

 何年か経ったある日の事。ブルグントの王宮でグンター達と再会したジークフリートに悲劇が訪れます。クリームヒルトとブリュンヒルトがどっちの夫が強いかで口喧嘩を始めてしまい、クリームヒルトが「競技をやったのは王じゃなく、姿を消していたジークフリートだったのよ!」と本当の事をばらしてしまいます。重鎮ハーゲンは王や王妃の名誉に傷が付くことを恐れ、ジークフリートの暗殺を計画します。言葉巧みにグンター王を説得したハーゲンは「背中の一点だけが生身である」という事をクリームヒルトから聞き出しました。そして、ジークフリートが泉の水を飲もうとかがんだ時、槍で突き刺して殺してしまったのでした。怒り狂ったクリームヒルトはハーゲンへの復讐を決意し、この悲劇が皮切りとなって多大の犠牲を出しながらブルグントは滅亡してしまうのです・・・。
 ジークフリートについての絵画14点をご覧ください。
 

 
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シグルズに関する絵画14点。竜を倒しヴァルキリーの愛憎を受ける北欧神話の英雄

Sigurd and Brunhild   Harry George 1920 -

 シグルズは北欧神話の「ヴォルスンガ・サガ」に登場する英雄です。
 彼は英雄シグムンドとヒョルディースの間に生まれました。戦争で夫を失ったヒョルディースはデンマークの王子と再婚しました。シグルズはレギンの元で養育され、青年になるとレギンに「財を成したいなら竜ファヴニールを倒せ」と催促されます。「まずは父の仇を討たせてくれ」と返したシグルズは、鍛え直した名剣グラムを使って父を殺したフンディング一族を滅ぼします。次に彼は養父の言う通りファヴニールを退治して財を手に入れますが、竜の心臓の脂を舐めて動物の言葉が分かる魔力を手に入れたことで、シジュウカラが「レギンは宝を独りじめしようとシグルズを裏切ろうとしている」という会話が聞こえたのです。彼はレギンを殺し、財宝の一部を持って旅に出ました。

 シグルズは炎に守られた館でヴァルキリーのブリュンヒルデを発見し、恋に落ちて結婚を誓い合います。しかし、ギューキの宮廷に着いたシグルズは、王妃グリームヒルドの策略によって忘れ薬を飲まされてブリュンヒルデの事を忘れてしまい、王女グズルーンと結婚してしまいます。ブリュンヒルデもシグルズの手引きによって王子グンナルと結婚する事となりました。
 しかし、ブリュンヒルデは誓いを忘れ自分を欺いたシグルズに激怒し、復讐を考えます。シグルズはかつての記憶を取り戻し、ブリュンヒルデとよりを戻そうとしましたが時既に遅し。妻を失いたくないグンナルは弟にシグルズの暗殺を頼み、眠っているところを襲わせました。彼は暗殺者と相打ちとなり、息絶えてしまいます。ブリュンヒルデは悲しみの内にシグルズの遺体を炎で焼き、自身の身もその中へ投じたのでした。
 悲劇の英雄シグルズにまつわる作品14点をご覧ください。

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仮面舞踏会の絵画13点。イタリア ルネサンスより流行った、素性を隠す妖しき祭典

Angelo Caroselli - Masquerade -

 仮面舞踏会(マスカレード)は15世紀のイタリアより始まった、仮面を被って素性を隠し参加するダンスパーティーのことです。
 イタリアのヴェネツィアでは、仮面を被って踊る「ヴェネツィア・カーニバル」が1162年頃に興りました。また、中世後期の宮廷内では、特別な機会の時に派手な衣装を着て行進したり、仮装して余興したりする「仮装舞踏会(モリスコ)」が流行っていました。これらのイベントが混ざり合い、仮面を被りながら踊る公的な式典である「仮面舞踏会」は誕生したのです。
 仮面舞踏会は17、18世紀に西洋全土に広がり、上流階級の間で大人気のイベントとなりました。仮面をした者たちは素性が分からないよう工夫を施し、踊ったり話したりしながら誰かを当てるという余興を行っていました。目元だけではなく顔を覆うタイプのものや、装飾をしたものなど様々なデザインの仮面が生まれたのです。仮面舞踏会は人気すぎてトラブルも多く、決闘での死者や暗殺なども起きており、風紀を乱すイベントとして禁止令を出した国王もいたほどでした。仮面舞踏会の文化は現在でも受け継がれており、妖しくも華やかなダンスパーティが密やかに行われているのです。
 仮面舞踏会に関する絵画13点をご覧ください。

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セネカの絵画14点。ネロ帝に命じられ自害した、偉大なるローマの哲学者&政治家

1615 - Peter Paul Rubens -

 セネカ (紀元前1世紀頃-65年) はローマ帝国時代の哲学者、政治家、作家です。
 裕福な地主の次男としてコルドバで生まれたセネカは、10代前半の頃にローマへ移り、教養や雄弁術、哲学などを学びました。しかし、20代の時に大病を患い、療養を兼ねてエジプトのアレクサンドリアへと遠征します。そこでも多くの事を学んだセネカは、十年後にローマへと戻って財務官職を経験した後、元老院議員として選出されます。

 カリグラ帝、クラウディウス帝の治世共に命の危機を乗り越え、セネカはクラウディウスの後妻となったアグリッピナの後ろ盾を得て法務官へと任命されます。アグリッピナは陰謀によって息子ネロを皇帝に仕立てあげ、その家庭教師にセネカを付け、執政官としての役割もセネカに与えました。セネカや外の人々のサポートもあり、ネロは五年の間善政を築きます。しかし、愛人問題により親子関係に深い確執が生じ、アグリッピナはネロの奸計によって殺されてしまいます。次第に暴君として振舞うようになったネロに対してサポートをしきれなくなり、セネカは政界の引退を申し出たのでした。

 家にこもったセネカは幾つかの作品を執筆し、そのまま余生を過ごすつもりでいました。しかし、引退の三年後、彼に悲劇が起こります。ネロを退位させようという陰謀が露見し、その中の一人が「セネカも加担していた」と自白したのです。ネロは自宅に役人を派遣し尋問しましたが、セネカの対応が曖昧だったので自害を命じました。セネカは始めドクニンジンを飲んで中毒死しようとしましたが、死に切れず、風呂場で静脈を切って命を絶ったとされています。セネカが実際に陰謀に加担していたかどうかは、未だに分かっておりません。
 では、波乱の時代に生きた哲学者セネカの絵画14点をご覧ください。

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ネロ帝の絵画14点。母と師を殺めキリスト教徒を迫害した、暴君とされるローマ皇帝

Emperor Nero  by Abraham Janssens 1618 -

 ネロ(37-68年)はローマ帝国の第五代皇帝で、暴君として知名度が高い人物です。
 母はアグリッピナで父はグナエウス。アグリッピナは夫の死と現皇帝カリグラの死により、新しく皇帝となった叔父のクラウディウスと結婚する事になりました。彼女の陰謀によってネロは後継者の第一候補となり、毒キノコ中毒でクラウディウスが急死すると、ネロは弱冠18歳で王位を手に入れる事になりました。その死はアグリッピナが関与しているという説が有力のようです。

 皇帝となったネロは家庭教師である哲学者セネカや、近衛長官のセクストゥスの意見を訊き、始めこそは善政を行っていました。しかし、母との確執や愛人問題によって狂っていってしまうのです。ネロは妻オクタウィアそっちのけで解放奴隷の娘を愛人としていたので、アグリッピナはそれを咎めます。口うるさい母を疎ましく思い始めていたネロは、母を宮殿から追放したあげく、二番目の愛人にまたも口出ししてきた母を殺害してしまいます。

 セネカや外の指南役も引退してしまい、指導する者がいなくなったネロは暴走し、オクタウィアを殺して後妻を娶り、多くの議員と共にセネカを殺し、ローマの大火をきっかけとしてキリスト教徒を迫害します。しかし、民衆の支持率が低下したネロは、68年に元老院に「国家の敵」とみなされてしまいます。ローマ郊外の解放奴隷の家へと逃げたネロは騎馬兵がやって来る音に恐れ、奴隷に命じて自分の喉を切らせて自害したとされています。母や妻や反ネロ派を次々と殺し、残虐な暴君とされたネロでしたが、彼の死に悲しむ者は多く、沢山の花や供物が墓へ供えられたそうです。
 では、皇帝ネロの絵画14点をご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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