メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

聖書

隠者の絵画13点。俗世から離れ、洞窟や廃墟で祈りを捧げ瞑想を行う世捨て人の姿

Federico Bencovich -

 隠者は世俗との関係を一切断って生活する人の事を指します。
 キリスト教で一番始めに隠者となった人物はテーベのパウロとされ、「初代隠者聖パウロ」と呼ばれています。使徒の聖パウロとは別の人物となります。キリスト教に根差した隠者たちは多くの場合、砂漠や森、洞窟、建物の中に住んでいました。そのような隠遁場所は「隠者の庵(いおり)」と呼ばれ、そこで祈りや懺悔を行って神への信仰を深めたり、神学を勉強して思想を深めたり、聖書の翻訳などを行っていました。
 修道院で飲食や会合して、付近のあばら家で最低限の暮らしをしていた隠者もいたそうですし、貴族の領地にある装飾用の建物に住んでいた隠者もいたそうです。隠者の知恵を求めて訪ねてくる来訪者は多くいたようで、隠居といえども厭世的な孤独とは無縁な人がほとんどだったようです。沢山弟子をとって大賑わいの隠者もいたとか。
 では、隠者に関する絵画13点をご覧ください。


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キリストと罪の女の絵画13点。罪が無い者が石を投げよと告げ、女性を救った物語

Lucas Cranach the Elder 1532 -

 この物語はヨハネの福音書に見られ、キリストが姦通の罪を犯した女性を庇い「罪のない者だけが石を投げよ」と言って周囲を黙らせた物語です。
 ある日、キリストが宮で話していると、律法学者やファリサイ派の人達が一人の女性を連れてきて、こう言いました。「先生、この女は姦通の罪で捕まりました。モーセの律法は石を投げて殺すよう命じていますが、どう思いますか?」これはキリストを捕まえる為の口実で、律法通りにしたら「お前の説く愛はどうした」と言えるし、許せというなら「律法に背いたな!」と言えるのです。キリストは身を屈めて何かを指で書いていました。彼等が催促をすると、キリストはこう答えました。

「貴方がたの中で罪のない者が、この女に石を投げつけるがよい」と。
 人々は黙り込んだまま次々に出ていき、 遂にはキリストと女性だけになりました。罪のない者など誰もいなかったのです。そしてキリストは「私も貴女を罰しません。家にお帰りなさい。もう罪を犯さないように」と告げたそうです。
 「罪がない者が石を投げよ」と告げるシーンの絵画13点をご覧ください。

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イグナチオ・デ・ロヨラの絵画13点。ザビエル達とイエズス会を創設した元軍人の聖人

Peter Paul Rubens  1600 -

 イグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)はイエズス会の創設者の一人であり、初代総長の修道士です。
 バスク地方のギプスコアにある城で生まれた彼は、12兄弟の末っ子でした。15歳の時に親戚の騎士の従者のとなり、20代後半の頃には軍人として各地を転々としていました。しかし、1521年に行われた戦争で銃弾が足に当たり、父の城で療養を余儀なくされました。
 療養中にロヨラはキリストの物語や聖人伝を読み、聖人達の生きざまに感銘を受けます。その時から彼の夢は「聖地に赴いて異教の者をを改宗させたい」となったのでした。ロヨラはそれからベネディクト会修道院を訪れて世俗的な生との決別を誓い、啓示を受けました。

 教養と神学を知る為にアルカラ大学とパリ大学で学び、その間に6名の同志を得ました。1534年にロヨラと6名の仲間はモンマルトルの丘に登り、今後7人は同じグループとして活動し、神に生涯をささげる誓いを立てました。これがかの有名なイエズス会の始まりで、その中にはフランシスコ・ザビエルもいました。教皇パウルス3世に修道会としての認可をもらい、ロヨラは初代総長となりました。 
 ロヨラは会員達を各地に派遣して、一般学校と神学校を創設させます。そして1548年に著書「霊操」が出版されました。そこには霊的指導を求めて来た人に対して行った、一連の黙想のテーマ集が書かれています。1556年にローマで死去(マラリアという説があります)。その66年後に聖人として列聖されました。
 では、イグナチオ・デ・ロヨラの絵画13点をご覧ください。


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ダヴィデの子アブサロムの絵画14点。父に謀反して長髪が仇となり絶命した美青年

James Tissot - Death of Absalom -

 旧約聖書の「サムエル記」に登場するアブサロムは、イスラエル王ダヴィデの三男です。彼はかなりの美貌を有しており、中でも滑らかな長髪を自慢にしていました。
 ある日、異母兄であるアムノンが妹のタマルに乱暴を働き、アブサロムは激怒しました。その事をダヴィデに伝えましたが、父はアムノンを裁いてくれません。業を煮やしたアブサロムは、二年後に兄弟全員を集める席をもうけ、手下を派遣してアムノンを殺害してしまいました。彼はシリアの祖父の所へ亡命し、その三年後にダヴィデの赦しを得て故郷へと戻っていきます。

 しかし、アブサロムはその時から父への謀反を計画し始めます。長男であるアムノンが消えた為、次に自分が王座に就くにふさわしいと触れ回り、着々と仲間を増やしていきました。ヘブロンで挙兵したアブサロムはエルサレムを奪い、ダヴィデは都へと落ち延びていきます。危機一髪に陥ったダヴィデでしたが、部下フシャイの機転で兵力を盛り返し、エフライムの森でアブサロム軍と激突します。アブサロム側は大敗し、彼は単身ラバに乗って逃れようとしました。しかし、自慢の長髪が木に引っかかり、宙づりになってしまったのです!
 
 それを知らされた腹心ヨアブはダヴィデに「絶対に手を出すな」と言われていたにも関わらず、手下と共に心臓に槍(矢)を突き刺し、アブサロムを殺してしまいます。その遺体はくぼ地に投げ込まれ、石塚で覆われました。息子の死を知ったダヴィデは深く嘆き悲しんだそうです。
 ロン毛の悲劇アブサロムについての絵画14点をご覧ください。

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聖フロリアンの絵画13点。火炙りされて川に沈められた、消防を司る軍司令官の聖人

Saint Florian by Francesco del Cossa, 1473 - コピー

 聖フロリアン(聖フロリアヌス)はローマ帝国時代の聖人です。
 現在のドイツ・バイエルン地方の軍司令官であった彼は、消防団も率いていました。帝国側はキリスト教の崇拝を辞めさせる為にアキリヌスを送り出しました。アキリアヌスはローマの神々の信仰を強要しますが、フロリアンは断固拒否。怒った帝国側はフロリアンを棍棒で殴り、釘で打ちつけて火で炙って拷問しました。そして首に大石をくくり付け、ドナウ川に沈めてしまったのでした。
 フロリアンはそれにちなんで消防関係者の守護聖人とされ、フロリアン十字は消防団の紋章として広く使用されています。
 では、聖フロリアンの絵画13点をご覧ください。

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旧約聖書エステル記の絵画13点。ハマンの陰謀からユダヤ人を救ったペルシャの妃

Jean-François Portaels 1869 -

 エステル記は旧約聖書の一つで、ペルシャの妃となったユダヤ人エステルが知恵を使って民族を守る物語です。
 モルデカイの養女エステルは、父の勧めによりペルシャ王アハシュエロス(クセルクセス1世)の後妻に選ばれる事になりました。王はアガグ人(古代パレスチナ周辺)であるハマンを高い地位に据え、彼に敬意を表してひざまずくよう人々に布告を出しましたが、モルデカイは拒否しました。元々ハマンはユダヤ人を憎んでいましたので、それを口実にしてユダヤ人の抹殺を計画します。ハマンはアハシュエロス王にユダヤの殺害を認めさせる事に成功したのでした。
 
 王妃エステルはハマンがユダヤ人虐殺を企てている事を知ります。モルデガイに促されてエステルは王にユダヤ人の救済を嘆願する為に、ハマンと同席の酒宴を確約させる事に成功します。その夜、偶然アハシュエロス王はモルデカイが王の暗殺を防いでいた事を知り、彼に褒美を与えました。酒宴の席でエステルは王に自分はユダヤ人であると明かし、ハマンは悪人であると説きました。ハマンは命乞いを行ったものの、王の決定によりモルデカイの処刑用に建てていた支柱で、自分が処刑される羽目となりました。こうしてエステルとモルデカイ親子はユダヤ人達の人々を護る事ができたのでした。
 エステル記の絵画13点をご覧ください。

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マグダラのマリアの悔悛の絵画13点。己の罪を反省する聖女を描いた、人気の主題

1533 ティツィアーノ -

 マグダラのマリアは自らの罪を悔い改め、キリストに付き従った聖女です。
 キリストが磔刑され、三日後に復活して天へと昇った後、彼女は兄のラザロと姉のマルタと一緒にフランスのマルセイユへと渡りました。そこで布教活動を行い、晩年には洞窟で隠遁生活を行いました。その生活は30年余り続き、亡くなったとされています。十字架と頭蓋骨を前にし、自らの罪を悔悛する主題は人気があり、多くの画家に描かれています。
 早速マグダラのマリアの悔悛についての絵画13点をご覧ください。

→ マグダラのマリアの人生についての絵画を見たい方はこちら

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使徒ヨハネの絵画14点。十二使徒であり福音書記ともされる、キリストの愛弟子

Guido Reni -

 使徒ヨハネは新約聖に登場するキリストの弟子です。十二使徒の一人であり、洗礼者ヨハネと区別する為に「使徒」や「福音記者」などの肩書きを付けています。
 彼は兄のヤコブと一緒にガラリヤで漁師を営んでいましたが、キリストと出会って弟子となりました。ペドロ、ヤコブらとともに最も重要な愛弟子となり、信仰を支え続けました。最後の晩餐の場面では「裏切者は誰ですか」とキリストのすぐ隣で問いかけています。キリストの磔刑の際は十二使徒の中でただ一人十字架の下にいたとされ、聖母マリアとマグダラのマリアと共に絵画に描かれています。

 十二使徒達が悲惨な死に方で殉教していく中、ヨハネだけが殉教を免れたとされています。ただ、ローマの迫害の際にヨハネは煮えたぎる油が入った大釜に入れられて殉教する所でしたが、奇跡的に助かりました。その後、パトモス島へ島流しにあい、そこで神の啓示にあって「ヨハネの黙示録」を書き上げたのでした。(使徒ヨハネと福音書記のヨハネは別人物であるという説もあります) 老齢になって釈放されたヨハネはトルコのエフェソスへと戻り、余生を終えたそうです。
 キリストの愛弟子、使徒ヨハネの絵画14点をご覧ください。

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マグダラのマリアの絵画13点。罪を悔悛しイエス・キリストと共に歩んだ愛深き聖女

Bernardino Luini -Maria Maddalena -

 マグダラのマリアは新約聖書に登場する、キリストに付きそう聖女です。聖母マリアと混同を避ける為、出身地を前に冠してマグダラのマリアと呼んでいます。
 一説にはキリストの友であるラザロとマルタの姉妹とされています。富と美貌によって快楽に溺れ、「罪深い女(娼婦と関連する)」と呼ばれるまでになりました。キリストと出会った事で自らの罪を深く悔い、共に伝道の道を歩みました。マグダラのマリアはキリストの足に涙を落とし、自らの長髪で拭い香油を塗ったとされている為、香油壺を持ったり側に置かれたりしている絵画が多いです。ラザロの蘇生、キリストの磔刑&復活などの重要な場面にも彼女は登場しています。キリストの昇天後はフランスのマルセイユで布教に努め、晩年は洞窟で隠遁生活を行ったそうです。
 聖母マリアと同じくらい有名な聖女である、マグダラのマリアについての絵画13点をご覧ください。

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キリストの五つの傷 (聖痕) の絵画14点。救済の概念を絞りすぎてシュールな姿に

Simon Bening, Worship of the Flemish 1525-30 -

 中世時代において、宗教画は「リアルであってはならない」ものでした。
 現世に生きる私達が、神聖なるキリストや神、聖人達を表現できる訳がない、聖なる存在を現実的に描くのは冒涜的である、という理由からです。それ故、中世の作品は象徴性が重視され、ヘタウマみたいな個性的な絵となったのです。その流れの中でイエス・キリストと言う存在は概念化、象徴化されるようになり、独特の表現が用いられるようになりました。

 それがこの「キリストの五つの傷(The five wounds of Christ)」、または「五つの聖なる傷(Five Holy Wounds)」と言う主題です。傷が付いたハートと手足が浮かんでいる姿。なんかもう、シュールすぎますよね・・・^^;
  これはキリストが磔刑された際に受けた傷 (手足は釘で打たれ、胸を槍で刺された) を表しており、彼が人類の原罪を背負って亡くなったという意味を強調しております。この表現は意外に使われていたようで、多くの挿絵が残されていました。
 では、キリストの五つの傷の作品、14点をご覧ください。少しだけ閲覧注意のところがあります。

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プロフィール
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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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