メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

歴史

女傑ゼノビアの絵画13点。勇敢なるパルミラ女王と野心的な夫に尽くした二人の女性

Zenobia by Carlo Antonio Tavella -

 ゼノビアという勇敢なる女性が、伝説上に二人存在します。
 一人目は、3世紀にシリアやエジプト周辺に興ったパルミラ王国の女王であるゼノビア。
 ゼノビアはパルミラ一帯を治めていたオダエナトゥスの後妻として入り、夫の参謀役として働きました。しかし、夫が267年に甥に暗殺されてしまったので、息子ウァバッラトゥスを後継者として立て、彼女は息子と二人で共同統治者となりました。268年になるとローマ皇帝ガッリエヌスが暗殺され、ゼノビアと息子はそれに乗じて領土を広げていき、ゼノビアは「戦士女王」と呼ばれるまでになりました。
 270年にローマ皇帝となったアウレリアヌスがパルミラ王国に降伏を迫り、彼女はそれを拒否。全面対決となります。それにより息子ウァバッラトゥスは戦死して大敗し、王国は滅亡してしまうのでした。ゼノビアはローマへと連行され、そのまま病気で死亡したとも、自死したとも、ローマの元老院と再婚して余生を暮らしたともされています。

 もう一人は51~5年に興ったイベリア王国の王子ラダミストゥスの妻としてのゼノビア。
 夫は野心家で、ゼノビアの父を処刑してアルメニアを征服してしまいます。ローマとパルティアの攻撃にあって一度はアルメニアを奪われるも、ラダミストゥスは復権します。しかし、彼がパルティア国に組した都市を罰した為、都市はパルティア王子をアルメニア王として立て、彼は地位を追われてしまいます。ラダミストゥスは身重であるゼノビアを連れて馬で逃げました。
 タキトゥスの伝説によると、ゼノビアはその時こう言ったとされています。「身重で乗馬に長時間耐えられない。足手まといになって敵の手に落ちるくらいなら、どうか私を殺してください」と。夫はその願いを聞いてやり、海岸で彼女を刺して一人旅立ちますが、ゼノビアは奇跡的に命を取り留め、羊飼い達に発見されます。彼女はそのままパルティア王の元へ連れられたものの、手厚くもてなされたそうです。一方、自国に逃走した夫は父に対して陰謀を企て、処刑されてしまったとされています。
 二人のゼノビアに関する絵画13点をご覧ください。

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医療占星術についての写本14点。12星座の生物が人体に乗っかるシュールな挿絵

Très Riches Heures du Duc de Berry 15th -

  中世の時代、、病気の患者に医療と占星術が結びついた治療を行っていました。それは医療占星術(メディカルアストロロジー)と呼ばれ、患者の星座と現在の星の位置を考慮したうえで、診断や治療が為されたそうです。
 星座は人体の部位と関連しているとされ、一見して分かるように人体に12星座がくっついたかのような「獣帯人間(zodiac man)」という特殊な絵が描かれました。頭には羊が置かれ、肩には二人の男女、胸にはカニが配置されていますね。その部位に置かれている動物(人)が該当する星座とされ、特に健康面において気を付ける箇所と言われています。以下が一覧となります。

4月 牡羊座・・・頭部
5月 牡牛座・・・首
6月 双子座・・・肩、腕
7月 蟹座・・・胸
8月 獅子座・・・心臓
9月 乙女座・・・腸
10月 天秤座・・・腰
11月 蠍座・・・生殖器
12月 射手座・・・大腿、尻
1月 山羊座・・・膝
2月 水瓶座・・・ふくらはぎ、足首
3月 魚座・・・足、足の裏

 私は天秤座なので、特に腰に気を付けなければならないということですね。これから紹介するゾディアックマンを見ていただくと、腰の部分に天秤が描かれているのが確認できると思います。まだ腰は痛めていませんが、将来ぎっくり腰にでもなるのかな?気を付けなくちゃ・・・(^^;)
 では、これらを踏まえながら医療占星術のゾディアックマンの写本挿絵14点をご覧ください。閲覧注意風の部分がありますのでお願いいたします。

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ユニコーンの絵画13点。獰猛だが処女にだけ心を許す、神秘をまとう伝説の一角獣

Gustave Moreau  1885 -

 かなり有名な伝説の生物であるユニコーン。一角獣とも呼ばれ、額の中央に長い角が生えた白馬の姿で描かれることが多いです。
 ユニコーンが初めて書籍に現れたのは古代ギリシャの歴史家クシテアスが書いた「インド誌」とされ、その後アリストテレスやプリニウスが一角獣についての言及をしています。その頃は姿が一定しておらず、馬ではなくロバや山羊、象、鹿などが混ざったキメラだとされていました。

 ユニコーンは美しい姿とは裏腹に、非常に獰猛で俊足。長い角はどんなものでも貫けるほど強靭とされています。しかし、その角は水を浄化し毒を中和する力があるとされ、あらゆる病気を治す特効薬と考えられていました。それ故、危険を承知で人々は角を求めたそうです。幸いにもユニコーンは美しい処女に弱いとされ、処女が現れると従来の凶暴さは成りを潜め、膝の上に頭を乗せて眠り込んでしまうとされています。(少年を美しく着飾って処女に見せる事も行われたそうです) その隙を見計らい、狩人たちはユニコーンを捕まえるのでした。一角獣の角は破格の値段で取引がされましたが、現代の調査ではそれらはイカックやサイの角ばかりであったそうです。
 貞潔や高貴の象徴ともされるユニコーンの絵画13点をご覧ください。


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盗賊(強盗)の絵画13点。旅人や貴族の身ぐるみを剥ぐ、西洋の追い剥ぎの悪しき姿

David Vinckboons, The Nest Robber 1576-1632 -

 土地が開拓されていなかった時代、都市から都市への移動は命がけの行為でした。自然の猛威や猛獣なども危険で気を付けるべき存在ですが、最も厄介な存在は盗賊(追いはぎ)達でした。彼等は何名かでグループを作って旅人を狙い、凶器で脅して身ぐるみを全て奪うのです。
 山の中に拠点を置いて通行人を襲う盗賊を山賊、海で船を使って他の船を襲撃する盗賊を海賊と呼び、戦争に参加した傭兵も強盗に変貌することがありました。旅の途中の農民や貴族を襲うだけではなく、村まるごとを襲い、略奪するものも現れました。そうなったら人々は逃げるしかなく、全てを奪い尽くされてしまうのです。
 北方ルネサンスや近代の画家が描いた、強盗の絵画13点をご覧ください。

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クロトンのミロンの作品11点。幹に手がはまって猛獣に喰われた最強レスリング選手

Giovanni Antonio de Sacchis IL Pordenone. Italian 1535-40 -

 クロトンのミロンは、紀元前6世紀頃の古代ギリシャで活躍したレスリング選手です。
 マグナ・グラエキナ(南イタリア)のクロトン出身で、古代オリンピックなどの競技で連戦連勝し、24年間無敗を誇ったとされています。歴史家のディオドロスによれば、紀元前510年に起こった戦争で活躍し、クロトン側の勝利に貢献したそうです。宴会場の屋根が崩れて哲学者のピタゴラスに降りかかった際、ミロンが屋根を支えて命を救ったという逸話もあります。ピタゴラスは感謝を表し、娘のミラを結婚相手として差し出したそうです。

 牛を肩に担いで鍛え、名声を欲しいままにしたミロン。しかし、彼の最期はなんとも悲しく情けないものでした。ある日、ミロンは腕力だけで木を切り倒そうとし、平手を幹に打ち付けました。木は引き裂けたものの、なんと手が裂け目にハマってしまったのです。木が倒れた音に反応してやってきたのは、獰猛な猛獣(獅子、狼とともされる)。手が抜けないまま、ミロンは猛獣に食い殺されてしまったのでした・・・。
 なんとも悲惨な最期を遂げたクロトンのミロンに関する絵画や彫刻作品、11点をご覧ください。

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あくびをする人の絵画13点。眠たい、退屈を示すあくびは案外画家に描かれていた

men yawning. Credit Luigi i Montejano  1850 -

 人間の生理現象である「あくび」。
 眠たい時、退屈な時、疲れた時、緊張した時、車に酔った時など、様々な場面であくびは出てきますよね。あくびのメカニズムはまだ完全に解明できておらず、肺の酸素の交換や顔面のストレッチ、内耳の圧力を調整しようとする、脳の温度を調節しようとするという説が考えられているようです。個人的には内耳の圧力と脳の温度が関係していそうな気がします。(車酔いが激しい人の意見ですw)
 ネットで絵画を見ていた時にたまたまあくびをしている人の絵画を発見し、他にも調べてみたら面白い作品が幾つかあったので記事にしてみました。
 では、あくびをする人の絵画13点をご覧ください。


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アリストテレスの絵画13点。ギリシャの哲学者であり、アレクサンドロス大王の師匠

Rembrandt - Aristotle with a Bust of Homer  1653 -

 アリストテレス(前384-前322)は古代ギリシャで活躍した哲学者です。
 プラトンの弟子であり、プラトンの師匠であったソクラテスと共に西洋最大の哲学者として数えられています。哲学だけではなく、形而上学、倫理学、政治学、宇宙論、自然学(物理学)、気象学、生物学、詩学、演劇学、心理学など多岐に渡る研究により、「万学の祖」と呼ばれています。アリストテレスは人間の本性が「知を愛する(フィロソフィア)」であると考え、それが哲学(フィロソフィー)の語源となりました。また、彼はマケドニア王アレクサンドロス大王の師でもありました。

  トラキア地方のスタゲイロスに生まれたアリストテレスは、幼少期の時に両親を亡くし、義兄の元で暮らしました。十代後半の時にアテナイへ行き、プラトンが主催する学園アカメデイアに学徒として入門します。その20年後にプラトンが亡くなると、アリストテレスは学園を辞めて学友ヘレニアスの勧めでアッソスの町へ行きます。そこでヘルミアスの姪であるピュティアスと結婚し、紀元前342年頃にはマケドニア王の招へいによりアレクサンドロスの教師となりました。

 彼がアレクサンドロス大王となって即位すると、アリストテレスはアテナイへ戻って学園「リュケイオン」を開設しました。かつてのプラトンと同じように、アリストテレスは弟子を呼び、様々な議論を交わしたのです。しかし、紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、状勢が不安定となった為に彼は母方の故郷エウボイア島のカルキスに移動しますが、病に倒れて62歳の生涯を閉じてしまったのです。
 アリストテレスの絵画13点をご覧ください。

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ネルソン提督の絵画13点。トラファルガーの海戦で戦死した、隻眼隻腕の英国の英雄

Portrait of Lord Horatio Nelson by Friedrich Heinr -

 ホレイショー・ネルソン(1758-1805)はイギリスの海軍提督です。アメリカ独立戦争やナポレオンとの戦争にて活躍しました。イギリス史上最大の英雄とされています。
 イングランドのノーフォークにある村の牧師の息子として生まれたネルソンは、父が病弱で貧困だった為に、12歳の時に母方の叔父を頼って海軍へと入隊しました。19歳で昇進試験に合格し、翌年には艦隊の指揮を任されるようになり、カリブ海周辺の諸島を守護しました。30歳の時には未亡人フランシス・ニズベットと結婚します。

 フランス革命の勃発により、地中海方面へ行ってフランス軍と戦争。砂が右目に入って視力を失ってしまいます。1796年には戦隊司令官に命ぜられて翌年には昇進を果たしますが、カナリア諸島のテネリフェ島の戦闘で負傷して右腕を切断し、ネルソンは隻眼隻腕の提督となってしまったのでした。

 その後もネルソンの勢いは止まらず、フランスやデンマークとの海戦に勝利を収めます。そして、1805年には運命のトラファルガーの海戦が行われたのです。フランス・スペインの連合艦隊との海戦に、ネルソンは全く怯むことなく前線に出て戦い、完全勝利を果たしました。これによりナポレオン1世の英国上陸の野望は打ち砕かれたのです。しかし、その代償としてネルソンは敵の銃弾を受けて命を落としたのでした。
 英雄ネルソン提督の絵画13点をご覧ください。

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エマ・ハミルトンの絵画13点。画家のモデルにして、ネルソン提督の愛人となった美女

LadyHamilton ヴィジェ・ルブラン 1790 -

 エマ・ハミルトン(1765-1815)は、イギリスの絵画モデルであり舞踏家。ネルソン提督の愛人として知られています。
 彼女はイングランド北西部のチェシャ―州に生まれ、早くに父を亡くして母に育てられました。本名はエイミー・ライオンであるものの、エマ・ハートと改名して家政婦として働きましたが、その美しさと性に奔放であったせいで辞職が続きました。17歳になった頃にはロンドンの名士の愛人となり、絵画モデルとしても働いていました。

 その後、エマは貴族チャールズ・グレヴィルの愛人となり、彼の友人の画家ジョージ・ロムニーに何枚かの絵画を描いてもらっています。別の女性と婚姻したグレヴィルが、エマをイタリアのナポリのサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの元へ連れていくと、彼はエマを深く気に入り、公式に結婚する事に決めました。エマはナポリで演技や踊りを混ぜ込んだ見世物を披露し、その魅力は国に広まって王妃マリア・カロリーナとも親しくなりました。

 それから、エマは特使としてやって来たホレーショ・ネルソン提督と、夫公認の愛人関係となりました。エマが36歳の時にネルソンとの娘ホレイシアを出産したものの、二年後に夫ウィリアムが亡くなり、ネルソンは出征してしまいます。残された彼女は寂しさのあまり浪費に走り、ネルソンが戦死した時には財産が残っていませんでした。それどころか借金が重なって家を取り上げられ、借金した者の監獄に入れられてしまいます。負債から逃れる為にエマはフランスへ渡ったものの、酒に溺れて50歳の若さで亡くなってしまいました。
 麗しの栄誉からどん底へ。絶世の美女エマ・ハミルトンを描いた絵画13点をご覧ください。

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ベアトリーチェ・チェンチの絵画11点。父の乱暴ゆえに殺害し、処刑された悲劇の少女

attributed to Reni or Sirani  1662 -

 ベアトリーチェ・チェンチ(1577-99年)はローマの貴族で、父親を殺害したとして処刑されてしまった悲劇の女性です。
 父親はフランチェスコで後妻はルクレツィア・ペトローニ、兄はジャコモ、末弟はベルナルド。一家はイタリアのローマにあるチェンチ宮に住んでいました。フランチェスコは周囲から暴力的で不道徳とみなされていましたが、貴族という階級により罪を免れていました。父は息子と妻を虐待し、ベアトリーチェに乱暴を働きました。彼等は被害を訴えましたが、裁判局は何も動いてはくれなかったのです。思い詰めた結果、彼等は父親を殺害する事を決意します。

 1598年、フランチェスコに麻薬を盛って殺そうとするものの失敗。やむなく家族は金槌を使って父を殴り殺してから、遺体をバルコニーから落としました。彼等は事件を隠匿しようとしましたが、殺人がばれてしまい、有罪で死刑を宣告されてしまいます。恩赦を主張したローマの人々の努力も虚しく、サンタンジェロ城の橋で兄ジャコモは四つ裂きの刑に会い、ルクレツィアとベアトリーチェは斬首の刑に処されてしまいます。末弟のベルナルドだけが罪を免れたものの、家族の処刑を見せられたとされています。

 そんな悲劇の家族の話は周囲に広まり、グイド・レーニ(または Elisabetta Sirani)派の人はこちらを振り返る薄幸そうなベアトリーチェ・チェンチの肖像を描きました。すると、何名かの画家がこちらを見つめる眼差しや儚い雰囲気に魅了され、類似作が生まれるようになりました。この作品により、彼女の名が後世に伝わったと言っても過言ではありません。
 では、ベアトリーチェ・チェンチに関わる絵画11点をご覧ください。1点だけ閲覧注意がございます。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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