メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

歴史

砂漠と火山噴火の絵画13点。画家が描き出すは、灼熱に彩られた大自然の猛威

Joseph Wright of Derby - Eruzione del 1771 da Portici 1774-6 -

 太古より、地球は地殻変動を繰り返して姿形を変化させてきました。大規模な火山噴火により大陸は海中より姿を現し、森林、草原、寒冷、砂漠など様々な地帯を生み出してきました。
 地球に人類が出現してからも、火山や砂漠などの自然災害は猛威を振るい、時として人類の存在を脅かしてきました。熱気と砂塵が支配する砂漠地帯は人々を暑さや飢えで朽ちさせ、火山噴火は溶岩や煙などで多くの命を奪いました。イタリアのヴェスヴィオ火山は79年に大噴火してポンペイの町を呑み込み、同国にあるエトナ山も17世紀に多大な犠牲者を出しています。日本やインドネシア、フィリピンなどの全国の火山も同様に大噴火が起こり、犠牲者が生まれています。
 そんな砂漠や火山などの自然に西洋の画家たちは魅了され、幾つかの作品が残されています。突如起こり迫りくる自然の脅威と、その中でたくましく生き文明を築いていく人々。
 では、砂漠と火山噴火にまつわる絵画13点をご覧ください。

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解剖についての絵画13点。大学や病院で人体を用いて解剖を学ぶ研究者たちの姿

The Anatomy Lesson of Dr. Nicolaes Tulp, by Rembrandt, 1632 -

 中世の時代、人間は神が創造した存在だから人間が勝手にいじってはならぬ、という思想であったので解剖や手術はほとんど行われませんでした。しかし、ルネサンスが興るにつれ、人体について興味を抱いた者が解剖を行うようになります。かのレオナルド・ダ・ヴィンチも解剖を見学していたとか。しかし、この時代でも神の作った人体を解剖する者は卑しい存在とされ、他から距離を置かれていました。

 更に時代が進んでバロックとなると、解剖も医学の進歩の為の手段と考えられるようになり、17世紀のフランドルでは解剖学の学者の講義が公に行われるようになりました。アムステルダムの医師会では年に一回の解剖が認められていたようです。被検体は処刑された犯罪者であり、その解剖は学生たちや一般に開放され、入場券を取った者は誰でも見ることができました。
 西洋諸国、特にフランドルでは解剖の講義をしている場面や、解剖した人体を中心にして学者たちがポーズを取っている絵画が幾つか存在します。
 では、解剖に関する絵画13点をご覧ください。閲覧注意の作品がありますので、ご了承ください。

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ソフォニスバの絵画12点。夫マシニッサの境遇により毒盃で果てたカルタゴの美女

ferrari luca 1650 -

 ソフォニスバ(紀元前203年頃)は、第二次ポエニ戦争時代に生きた、カルタゴの美女です。
 カルタゴの将軍ハスドルバル・ギスコの娘として生まれた彼女は、東ヌミディア王国の王子マシニッサと婚約していましたが、東ヌミディアは共和政ローマとの戦争で大敗して王を失ってしまい、西ヌミディア王国が吸収してしまいます。それにより、ソフォニスバは西ヌミディアの王シュファクスと結婚しました。ヌミディアとカルタゴは同盟国となり、ローマ軍に対抗しますが、ローマ司令官の大スキピオとの戦争により破れてシュファクスは捕虜となってしまいます。彼は紀元前203年頃にローマで殺されてしまいました。

 一方、東ヌミディアの王子マシニッサはローマの傘下へと入り、大スキピオを援助しました。その功績により、マシニッサはヌミディア王へと選出されます。その時、マシニッサはかつての許嫁ソフォニスバを見つけ、妻とする事にしたのです。
 しかし、カルタゴ将軍の娘であるソフォニスバにとって、ローマは敵国でした。ローマ側としても同様で、大スキピオはソフォニスバとの結婚を容認せず、彼女をローマへと連行する事に決めました。ソフォニスバは捕虜の扱いとなる事を恥辱とし、毒盃を飲み干して自ら命を絶ったのでした。
  このローマ時代の物語は日本ではマイナーですが、多くの絵画が描かれています。では、毒盃を飲んで自死しようとしているソフォニスバの絵画12点をご覧ください。

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サン・バルテルミの虐殺の絵画12点。カトリックがプロテスタントを殺戮した悲しき事件

Joseph-Nicolas Robert-Fleury -

 サン・バルテルミの虐殺は1572年8月24日のフランスで、カトリック教徒がプロテスタント教徒を大虐殺した事件です。
 フランスでのカトリックはプロテスタントの事をユグノーと呼んでおり、1562-98年に渡って双方の間でユグノー戦争が起きていました。そんな折、国王シャルル9世の母カトリーヌ・ド・メディシスが、二つの教徒の和解を目指そうと、プロテスタントの指導者ナバラ王アンリと、王の妹であるマルグリットを結婚することを提案しました。1572年8月に結婚式は執り行われ、プロテスタントの中核であるコリニー提督など多くの貴族たちがパリに訪れ、結婚を祝いました。
 しかし、コリニー提督が狙撃される事件が起きて双方との溝は更に深まる事態となり、その二日後のサン・バルテルミの祝日に大虐殺は起きてしまいます。カトリックの強硬派がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命によりプロテスタント派の貴族が大勢殺されます。その波紋は市民にまで及び、市内だけではなく地方でもプロテスタントの虐殺は行われてしまいました。その犠牲者は1~3万人と考えられています。
 では、サン・バルテルミの虐殺についての絵画12点をご覧ください。

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ヤン・フスの絵画13点。プロテスタントの先駆者で、異端により火刑となった宗教家

Hus by an unknown artist 16th -

 ヤン・フス(1369頃-1415年)はボヘミア地方(中欧)出身の宗教改革者です。当時のカトリック教を批判してプロテスタント運動の先駆者となりましたが、異端者として火刑に処されてしまいました。
 フシネツという町で貧しい家庭に生まれたフスは、教会に奉公して家計を助けていました。10代半ばにプラハ大学へと赴き、勉学に励んだ彼は次々と資格を取り、1402年には学長にまで上り詰めます。しかし、改革者であるジョン・ウィクリフの思想に傾倒したフスは、聖職者のありようを批判するようになって職を解任されてしまいます。この頃、ボヘミア王とローマ教皇が対立しており、王の取り計らいによりフスは復職しましたが、教皇の力によってウィクリフの書物は異端となり、焚書される事になりました。

 その後、教会側は十字軍の遠征費用を賄う為、免罪符(買えば罪が軽減されるという証明書)を大量に発行します。フスは救済が金で買えることを批判して論文を書き、多くの支持者を得ますが、彼の文章は異端とされて大学から追い出されてしまいます。ボヘミア王は教会側とフス派を和解させようと努めましたが敵わず、双方の溝は益々深まってきました。1414年のコンスタンツ公会議の際、フスは招待されたものの、敵方の陰謀によって捕らえられ、幽閉されてしまったのでした。

 翌年にフスの宗教裁判が行われ、ボヘミア王の後継者は教会側の主張を受け入れろと忠告したものの、フスは折れませんでした。公判から一か月後、フスは異端者として火刑に処される事となりました。「異端の首謀者」と書かれた山高帽を被せられ、火刑台の柱に縛り付けられ、首元まで薪とわらが積み上げられました。火刑が執行される間、フスは自らの主張を一度も曲げず、ずっと神に祈りを捧げ続けていたそうです。フスは殉教した聖人として崇拝されるようになり、フス派の人々は勢力を保ち続け、その後フス戦争が起こったのでした。
 では、ヤン・フスについての絵画13点をご覧ください。


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狂王女フアナの絵画13点。権力に揉まれ、夫フィリップ美公の死により狂った王女

Jeanne la Folle 1856 Louis Gallait -

 カスティーリャ王女のフアナ(1479‐1555)は、夫フィリップ美公の関係から精神を崩し始め、夫の死をきっかけに狂気に陥ってしまった悲劇の女性です。狂王女フアナとも呼ばれています。
 フアナはカスティーリャ王女のイザベル1世とアラゴン国王フェルナンド2世との間に次女として生まれました。(現在のスペイン) 17歳の時にブルゴーニュ公フィリップ美公と結婚し、ネーデルラントへ嫁いでいきます。始めこそ二人は愛し合うも、真面目なフアナは女たらしであるフィリップが許せず、夫の心は次第に離れてゆきます。結婚から数年後、フアナの兄弟と世継ぎが相次いで亡くなり、彼女はカスティーリャの王位継承者に任命される事になりました。

 夫と共にカスティーリャへ行ったフアナ。しかし、フィリップはその地を嫌って祖国へと帰ってしまいました。ショックを受けたフアナは養育が困難になり、5人の子供は兄嫁や父が引き取る事となりました。24歳の時に母イザベル1世が亡くなり、フアナは王位を継ぐこととなります。フィリップは「妻は精神不安定だから俺に王位をくれ」と主張しましたが、彼の野心を見抜いていたイザベル1世は遺言でフアナに王位を託し、決して譲ろうとしませんでした。アラゴン国王である父フェルナンド2世も娘の王位を認めます。そんな最中、フィリップがスポーツ後に飲んだ水にあたり、1506年に急死してしまいました。

 夫の死を知ったフアナは完全に正気を失い、フィリップの棺を乗せた馬車に乗ってカスティーリャをさまよい続けたとされています。夫の死の二年後、フアナは父親により修道院に隣接した城に幽閉されてしまいました。彼女は「狂王女」と呼ばれ、政治から完全に隔離されました。フアナは夫の死の後に産まれた娘カタリナに固執し、長男カルロスがカタリナを離そうとすると、狂乱に陥ってしまったそうです。幽閉から約47年経ち、フアナは76歳でその生涯を閉じました。正気を失ってしまったとしても、彼女は「女王」という誇りは持ちつづけていたそうです。王位は息子カルロス1世に受け継がれ、後に孫フェリペ2世へと渡っていきました。
 では、愛に裏切られ死に絶望する、狂王女フアナの絵画13点をご覧ください。

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ホメロスの絵画12点。イリアスやオデュッセイアを歌った、ギリシャの盲目の吟遊詩人

flemish artist caravaggio style 1639 -

 ホメロスは紀元前8世紀頃に生きたとされるギリシャの吟遊詩人であり、「イリアス」と「オデュッセイア」の作者と考えられています。
 ホメロスについての史実はほぼ存在しておらず、その素性は伝説じみており、架空の存在ではないかという説もあります。伝承によると、彼は文芸の女神カリオペの子や私生児であるとされ、盲目と考えられています。当時のギリシャでは有能な詩人は盲目であるという先入観があったそうで、ホメロスの雄弁さを伝える一種のステータスであると考えられます。エーゲ海にあるキクラデス諸島のイオス島で亡くなったとされています。
 イリアスとオデュッセイア以外にも幾つかの作品をホメロスは残しており、それらは後世の文学や芸術家達に多大な影響を与えました。「西洋文学の父」として、ホメロスは現代に至っても不動の地位を保ち続けています。
 では、ホメロスに関する絵画12点をご覧ください。

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アイスキュロスについての絵画12点。オレステイアを書き、悲劇的な死を遂げた詩人

17th century engraving of the death of Aeschylus -

 アイスキュロス(紀元前525年 - 紀元前456年)はギリシャの詩人であり、三大悲劇詩人の一人です。後の二人はソポクレスとエウリピデス。
 アイスキュロスはアテネ郊外の地主の息子として生まれました。若い頃から劇作家としての才能を開花させ、大会で13回優勝したそうです。代表作は「オレステイア三部作」で、他に「テーバイ攻めの七将」、「ペルシア人」、「縛られたプロメテウス」などを手掛けています。90篇もの作品を書いたとされていますが、現代まで伝わっているのは7篇のみ。マラトンの戦いとサラミスの海戦に従軍し、その体験が「ペルシア人」で生かされているそうです。

 アイスキュロスはシチリア島で没したとされていますが、その死因についてとんでもない伝説が残されています。岩場に座っていると、突然亀が落ちてきて頭を強打。彼はそのまま死んでしまったのです。その理由は、亀を岩へ落として食べるヒゲワシに、岩と間違えられて亀を落とされたから・・・。つるっつるの頭のせいで死んでしまうなんて、なんと理不尽な世の中であることか。空から凶器が降って来るなんて、対策の仕様がないですし。可哀想すぎる(T_T)
 では、禿げの為に亡くなった悲劇の詩人アイスキュロスにまつわる絵画12点をご覧ください。

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サッフォーの絵画13点。レスボス島に女性の学校を作った、古代ギリシャの女流詩人

Jules-Élie Delaunay 1828 – 91 -

 サッフォー(サッポ―)は紀元前7₋6世紀頃に生きたとされる、古代ギリシャの女流詩人です。
 彼女の生涯は謎に包まれており、エーゲ海の北東に位置するギリシャ領であるレスボス島に生まれ、紀元前596年にシケリア島へ亡命し、その後レスボス島に戻ったとされています。サッフォーは女性しか入学できない学校をレスボス島に作り、そこでは文芸・音楽・舞踊などの教育が行われたとされています。また、彼女は女性に対する愛の手紙を残し、愛の詩を数多く手がけていた為、同性愛者であったという説もあります。女性の同性愛者を呼ぶ呼称である「レスビアン」も、サッフォーがレスボス島出身であることに由来しております。ですが、それらの事は推測に過ぎず、確証はありません。

 現に、彼女は男性との恋話が幾つか残されています。同じレスボス島出身の者にアルカイオスという詩人がおり、彼とは手紙の交換をし、恋愛関係の時もあったとされています。また、サッフォーはファオンという美青年に恋してしまい愛を伝えますが、彼の返答は「そっか」で終わってしまって絶望し、レウカディアの岸壁から身を投げて死んでしまったという逸話もあります。
 では、愛を謳う詩人サッフォーの絵画13点をご覧ください。

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隠者の絵画13点。俗世から離れ、洞窟や廃墟で祈りを捧げ瞑想を行う世捨て人の姿

Federico Bencovich -

 隠者は世俗との関係を一切断って生活する人の事を指します。
 キリスト教で一番始めに隠者となった人物はテーベのパウロとされ、「初代隠者聖パウロ」と呼ばれています。使徒の聖パウロとは別の人物となります。キリスト教に根差した隠者たちは多くの場合、砂漠や森、洞窟、建物の中に住んでいました。そのような隠遁場所は「隠者の庵(いおり)」と呼ばれ、そこで祈りや懺悔を行って神への信仰を深めたり、神学を勉強して思想を深めたり、聖書の翻訳などを行っていました。
 修道院で飲食や会合して、付近のあばら家で最低限の暮らしをしていた隠者もいたそうですし、貴族の領地にある装飾用の建物に住んでいた隠者もいたそうです。隠者の知恵を求めて訪ねてくる来訪者は多くいたようで、隠居といえども厭世的な孤独とは無縁な人がほとんどだったようです。沢山弟子をとって大賑わいの隠者もいたとか。
 では、隠者に関する絵画13点をご覧ください。


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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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