メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

歴史

農民の踊りの絵画15点。ブリューゲル一族から広がるフランドルの愉快なお祭り作品

ルーベンス A Peasant Dance (1636-40) -

 農民の踊りは、フランドルの農民たちが結婚式などのお祝いで踊る場面を描いた作品です。
 ピーテル・ブリューゲル(父)の作品が主に知られており、農民の生活を生き生きと描いた初めての画家とされています。彼は裕福層の出身にかかわらず、農民と共に過ごし、お祭を楽しんだそうです。愛想が良くて悪戯好きだったというから、人気者だったのでしょう。ブリューゲルの描いた農民の踊りのモチーフは、後に息子に引き継がれ、後にフランドルの画家、他国へと渡っていきます。その絵画は当時の風習や様式、文化のみならず、農民の楽し気な雰囲気までもが閉じ込められているのです。
 ブリューゲルから派生した農民の踊りの絵画、15点をご覧下さい。

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フランシスコ・ザビエルの絵画13点。始めて日本でキリスト教を伝えた、有名な聖人

Mattia Preti (Il Cavaliere Calabrese), Francis Xavier 17th -

 おそらくこの名を知らない人はいないのではないでしょうか。フランシスコ・ザビエル(1506-52)はカトリック教の宣教師であり、イエズス会の創設者の一人です。また、キリスト教を日本で始めて伝えました。
 彼は現在の北スペイン辺りにあるナバラ王国で地方貴族の家に生まれました。パリ大学に留学し、聖バルブ学院に入っている時、イグナチオ・デ・ロヨラと出会います。彼から強い影響を受けたザビエルは聖職者になることを決意。そして感銘を受けた青年らが集まり、ロヨラを総長にして「巡礼と奉仕、教皇が望むところ何処へでも行こう」と誓いが立てられ、イエズス会が創立されました。

 世界への宣教を目的にしていたイエズス会はポルトガル王ジョアン3世の依頼で、早速インド西海岸のゴアへ旅立ちます。ゴアへ着いた彼等は布教を開始し、そこで日本人と出会いました。ザビエルらは彼の導きで日本を目指し、鹿児島県へ到着します。薩摩国の大名、島津貴久に宣教の許可を得て布教を行い、キリスト教の良さを伝えますが、仏僧との折り合いが悪くなり、肥前国、周防国、京の国へと渡っていきます。徐々に信徒は増えていき、600名程になったと言われています。日本滞在から二年後、ザビエルらは一旦インドへ戻り、日本で布教するには文化に影響を与えている中国から行う方がいいと判断し、中国へ渡ります。しかし、中国への道筋は思いのほか険しく、ザビエルは病を患ってしまい、志半ばで息を引き取ってしまいました。享年47歳でした。その後、遺体はマラッカ経由でゴアに移されて安置され、70年後に聖人として数えられるようになりました。
 異国の地で布教を精力的に行ったフランシスコ・ザビエルの絵画13点をご覧ください。

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暗殺の天使シャルロット・コルデーの絵画12点。フランスの革命者マラーを殺した女性

Charles Louis Müller (1815-1892) -

 シャルロット・コルデー(1768-93)は、ジャコバン派の指導者の一人マラーを暗殺した女性です。
 フランスのノルマンディーに住む貧乏貴族の元に産まれた彼女は、劇作家ピエール・コルネイユの子孫でした。13歳の時に母が亡くなり、修道院へ入りました。読書好きで物静かな少女で、祖先のコルネイユの作品やプルタルコスの作品を愛読していました。革命の煽りにより修道院は閉鎖され、カーン市に住む叔母の元に身を寄せます。国内が荒れていく中、コルデーは革命推進派であるジャコバン派を憎悪し、保守派であるジロンド派を支持するようになりました。争いに敗れてカーンへやって来たジロンド派の議員と会話をして、彼女はジャン・ポール・マラーを殺害しようと思い立ちます。
 1793年、彼女は単身パリへ赴き、マラーの自宅を訪ねます。彼は人民に対して入室を許可していました。皮膚病の為に浴槽に入っていたマラーに、コルデーはカーンで計画されている陰謀のメモを渡します。その時、彼女は隠し持っていたナイフで勢いよく胸を刺したのです!マラーは絶命し、彼女はその日のうちに逮捕され、革命裁判で死刑判決を受けて4日後にギロチンで処刑されてしまいました。誕生日の10日前、享年24歳でした。
 その美貌から「暗殺の天使」とも称された、シャルロット・コルデーの絵画12点をご覧ください。

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マラーの死の絵画13点。恐怖政治を強いたフランス革命指導者は、女に暗殺される

 The Death of Marat -

 ジャン・ポール・マラー(1743-93)は、フランス革命におけるジャコバン派の指導者の一人です。
 マラーはスイスの家庭に生まれ、ヨーロッパ各地で勉学に励んだ後、ロンドンで医者になりました。30代の頃にフランスに呼ばれ、6年間王の弟であるアルトワ伯(シャルル10世)のもとで働きます。彼はその頃から社会体制に不満を抱いており、変革運動を始めていました。1789年に起こったバスティーユ牢獄をきっかけとし、フランス革命が本格的に勃発します。マラーは政府に過激な攻撃を繰り返し、一時はイギリスに亡命するも、数か月後に戻ってテュイルリー王宮の襲撃や、反革命派の虐殺に関わりました。1792年にジャコバン派に所属し、ロベスピエール、ダントンらと指揮を執りました。反対勢力であるジロンド派を攻撃し、勢力を増大させ、1793年1月の議決によってルイ16世とマリー・アントワネットは処刑されてしまいます。その後、国内は大いに荒れ、ジャコバン派は恐怖政治を行い始めます。

 マラーはその時患っていた皮膚病が悪化し、自宅で浴槽に浸かりながら職務を行っていました。万人の面会を許していたマラーの元に、シャルロット・コルデーという女性が訪れます。彼女は陰謀についての話を巧みにして、隠し持っていたナイフで胸を刺してマラーを暗殺してしまいます。コルデーはジロンド派の支持者でした。7月に起こったこの事件は大センセーションを巻き起こし、数々の絵画が描かれました。マラーの死の作品は格好のプロパガンダとなり、ジャコバン派は盛り上がりを見せようとしますが、恐怖政治を糾弾され、同月に指導者ロベスピエールも処刑されてしまいました。
 マラーの死についての絵画13点+αをご覧ください。

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人造人間ホムンクルスについての絵画11点。フラスコで生み出された知恵ある小人

Homunculus in a vial -

 ホムンクルスは錬金術師によって生み出された小人で、中世ルネサンスの時期に盛んに研究されました。
 「フラスコの中の人」と言われている通り、フラスコに納まるくらいのサイズで、中から取り出したら死んでしまうとされています。産まれた時からあらゆる知識を有しているそうです。ホムンクルスの作り方としては諸説あります。一つ目には人間の精液を入れ、40日間密閉して腐敗させます。そうすると透明で人型のようなものが現れ、それに人間の血液を与え続け、馬の胎内の同温度で保温します。すると40週間後、人間の姿のホムンクルスが誕生します。

 二つ目として、クリスタルガラスの容器に5月の三日月の夜露と青年の血液を適量入れます。一か月後に透明の液と赤い沈殿物ができますが、上澄みを取り、動物の抽出液を加え、下の赤い沈殿物は過熱をしながら一ヵ月置きます。やがて沈殿物は内臓や血管などを形成するようになり、それに4週間ごとに上澄みの液を振りかけてあげます。すると、4か月後には樹が生え、小さい少年と少女が生まれているのです。なんだか現実と幻想が入り混じった、不思議な作り方ですよね・・・。現代では「そんなのでできるわけないじゃん!」と思うのですが、当時の方たちは本気で取り組んでいたのでしょう。
 ホムンクルスに関わる絵画11点をご覧ください。

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アーサー王の絵画13点。円卓の騎士を率い、国家統一を果たした伝説のブリテン王

Charles Ernest Butler, King Arthur, 1903 -

 アーサー王は5世紀後半~6世紀前半に生きた、ブリテン人の伝説の王です。
 彼はケルトの伝承において有名な存在なので、まとまった歴史や物語があるかと思いきや、意外にも原典となる作品は存在しておりません。中世の歴史書や騎士道物語に登場するアーサー王は設定や出来事が異なっており、現在伝わっているアーサー王という存在はそれらを一纏めにしたものと言えそうです。中世初期から彼に関する史実はちらほらとありましたが、1138年にジェフリー・オブ・モンマスが書いた歴史書「ブリタニア列王史」によって、アーサー王の伝説が世界中に広まることになりました。ジェフリーが描くアーサー像はサクソン人に勝利し、ブリテンやアイルランド、アイスランド、ガリアなどを含めた大帝国を築いたとされています。この時点で既にアーサー王の物語の要素が入っており、12世紀にランスロットと聖杯のエピソードが追加され、中世時期において栄華を極めましたが、その後廃れてしまいました。人気が復活したのは19世紀になってからで、現代においても物語は愛され読み続けられています。
 では、物語のあらすじを見つつ、アーサー王の絵画13点をご覧ください。

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錬金術師(アルケミスト)の絵画13点。賢者の石と金の錬成に生涯を掛けた研究者達

Joseph Wright of Derby  1771 リンの発見 -

 錬金術師は卑金属からの金の錬成や、不老不死となる賢者の石やエリクサーの錬成、人造人間の錬成などを研究した者のことを指します。
 始まりは古代ギリシャからで、古代エジプトからイスラムに伝わり、12世紀には西洋でも盛んに研究されるようになりました。万物は火、風、水、土の四大元素から成り立っており、元素は分解や相互変化ができるとされました。この四つの元素を金の配合と同じにすれば金が生成できると考えられました。この思想は占星術と結び付けられ、神秘を纏っていく内に不老不死を可能とする「賢者の石」の思想も生まれることになりました。中世の錬金術師たちはこの物質を錬成しようと、こぞって研究を行いました。

 化学者としての発明も数多くあり、錬金術師は磁器の製法の発見、蒸留の技術、硫酸・硝酸・塩酸や実験道具の開発などを行いました。17世紀後半になると四大元素は否定され、アントワーヌ・ラヴォアジエが「質量保存の法則」と33ヶの元素を発表すると、錬金術は近代化学に変貌していきます。金や永遠の命を求める錬金術師の熱意が化学を底上げしたといっても過言ではないように思います。
 様々な実験を行う錬金術師の絵画、13点をご覧ください。

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トロイ戦争の英雄アキレスの絵画12点。敵将ヘクトルを倒すも踵を射られて絶命する

Death of Achilles  Peter Paul Rubens 1630-35 -

 アキレスはギリシャ神話のトロイ戦争に登場する英雄です。
 母テティスによってかかとを除いて不死となった彼はケイロンに養育され、立派な青年になります。トロイ戦争に参加することになったアキレスは総大将アガメムノンともめ、険悪な仲になってしまいます。それ以降彼は戦いに出陣しなくなり、ギリシア側は総崩れとなってピンチに陥りました。それを見かねた親友パトロクロスは彼の鎧をこっそりと借り、アキレスと偽って戦争に出ました。戦況を盛り返したものの、パトロクロスは大将ヘクトルによって討ち取られ、鎧を奪われてしまいます。大親友がヘクトルに殺されてしまい、大激怒をするアキレス。彼はヘクトルに一騎打ちを挑み、圧倒的な強さで倒してしまいました。怒り収まらぬアキレスはヘクトルの遺体を戦車に取り付け、そこら中に引きずり回しました。
 それからアキレスは次々と敵将を討ち取っていきますが、ヘクトルの弟のパリスによって弱点であるかかとを射られ、絶命してしまいます。(一説にはアポロン神) その後、息子のネオプトレモスがトロイの王プリアモスを討ち取り、トロイは陥落したのでした。
 親友の死からヘクトルの討伐、アキレスの死までの絵画12点をご覧ください。
→ アキレスの幼少期と戦争以前の絵画を見たい方はこちら

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ギリシャ神話の英雄アキレスの絵画12点。ケイロンに師事した彼は戦争へ連れられる

education centaur Chiron 1782 Jean Baptiste Regnault -

 アキレスはギリシャ神話に登場する英雄です。
 王ぺーレウスと海の女神テティスとの間に生まれました。アキレスが生まれると、テティスは直ぐ冥府の川スクテュスに息子を浸しました。その川には人を不死にする力がありましたが、テティスはアキレスの足首を掴んでいた為、かかとだけ不死にはなりませんでした。その後、彼はケンタウロス族の賢者ケイロンの元に預けられて養育されました。立派な青年になったアキレスでしたが、トロイ戦争に関わると命を落とすと予言が出たので、テティスは息子を女装させてスキュロス島へ移しました。そこで彼は王の娘デイダメイアとの間に息子ネオプトレモスをもうけています。

 そこへ戦争の勧誘にオデュッセウスが来たので、女装したアキレスはやり過ごそうとしました。しかし、策士の彼は女性向けの物の中に武器を混ぜ、正体を暴いてしまいました。こうしてアキレスは戦争に出ざるを得なかったのです。いざ出航しようとした彼等でしたが、トロイ方面とは逆の風が吹いており進めませんでした。総大将アガメムノンが神託をすると、娘を生贄へ捧げるという結果が出ました。アガメムノンはアキレスとの縁談を理由に娘を呼び寄せ、生贄にしてしまいます。アキレスはその事に非常に強い怒りを示し、亀裂を生じさせるきっかけとなりました。
 その後、彼はトロイ戦争へ参加して予言通りに命を落としてしまうのですが、今回はアキレスの幼少期とアガメムノンの確執についての絵画12点をご覧ください。

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悲劇の女王ジェーン・グレイの絵画13点。王権争いで9日目に廃位、後に処刑される

Paul Delaroche 1833 -

 ジェーン・グレイは1537年-54年に生きたイングランドの女王です。王権争いによって九日後に廃位させられ、その七か月後に処刑されてしまいました。その為、「九日間の女王」とも呼ばれています。
 政治家であるジョン・ダドリーは、自らの血統者を王位に継がせたいと考えていました。エドワード6世が重病にかかった為、好機とばかりに自分の息子ギルフォードを王の血統を継ぐジェーン・グレイと結婚させます。ジェーンは前王ヘンリー8世の妹の孫にあたります。エドワード6世が病死をすると、ジョン・ダドリーはジェーンの王位を宣言し、女王に仕立てあげるものの、王の姉にあたるメアリー1世(ブラッディ・メアリ)がサフォークで支持派を集め、ロンドンの枢密院が彼女を王女として認めました。ジェーン・グレイが女王でいられたのは、わずか九日間でした。

 女王から一転、反逆者の罪を被せられたジェーンと夫ギルフォードはロンドン塔へ幽閉されてしまいます。首謀者であるジョン・ダドリーは一か月後に処刑されましたが、メアリー1世は夫妻に恩赦を与える気でいました。しかし、メアリー1世がスペイン王フェリペ2世と結婚すると発表するや否や、民衆や政治界の間で猛烈な反対が起こりました。その混乱状態の最中、女王は一部の議員の説得を受け、ジェーンとギルフォードの処刑を決定するのです。それは王位の立場を危うんだ故の判断でしたが、二人にそのような気はありませんでした。廃位から7か月後の2月12日、ジェーン・グレイはわずか16歳、ギルフォードは19歳で処刑されてしまいました。
 悲劇の女王ジェーン・グレイの絵画13点をご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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