メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

歴史

盗賊(強盗)の絵画13点。旅人や貴族の身ぐるみを剥ぐ、西洋の追い剥ぎの悪しき姿

David Vinckboons, The Nest Robber 1576-1632 -

 土地が開拓されていなかった時代、都市から都市への移動は命がけの行為でした。自然の猛威や猛獣なども危険で気を付けるべき存在ですが、最も厄介な存在は盗賊(追いはぎ)達でした。彼等は何名かでグループを作って旅人を狙い、凶器で脅して身ぐるみを全て奪うのです。
 山の中に拠点を置いて通行人を襲う盗賊を山賊、海で船を使って他の船を襲撃する盗賊を海賊と呼び、戦争に参加した傭兵も強盗に変貌することがありました。旅の途中の農民や貴族を襲うだけではなく、村まるごとを襲い、略奪するものも現れました。そうなったら人々は逃げるしかなく、全てを奪い尽くされてしまうのです。
 北方ルネサンスや近代の画家が描いた、強盗の絵画13点をご覧ください。

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クロトンのミロンの作品11点。幹に手がはまって猛獣に喰われた最強レスリング選手

Giovanni Antonio de Sacchis IL Pordenone. Italian 1535-40 -

 クロトンのミロンは、紀元前6世紀頃の古代ギリシャで活躍したレスリング選手です。
 マグナ・グラエキナ(南イタリア)のクロトン出身で、古代オリンピックなどの競技で連戦連勝し、24年間無敗を誇ったとされています。歴史家のディオドロスによれば、紀元前510年に起こった戦争で活躍し、クロトン側の勝利に貢献したそうです。宴会場の屋根が崩れて哲学者のピタゴラスに降りかかった際、ミロンが屋根を支えて命を救ったという逸話もあります。ピタゴラスは感謝を表し、娘のミラを結婚相手として差し出したそうです。

 牛を肩に担いで鍛え、名声を欲しいままにしたミロン。しかし、彼の最期はなんとも悲しく情けないものでした。ある日、ミロンは腕力だけで木を切り倒そうとし、平手を幹に打ち付けました。木は引き裂けたものの、なんと手が裂け目にハマってしまったのです。木が倒れた音に反応してやってきたのは、獰猛な猛獣(獅子、狼とともされる)。手が抜けないまま、ミロンは猛獣に食い殺されてしまったのでした・・・。
 なんとも悲惨な最期を遂げたクロトンのミロンに関する絵画や彫刻作品、11点をご覧ください。

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あくびをする人の絵画13点。眠たい、退屈を示すあくびは案外画家に描かれていた

men yawning. Credit Luigi i Montejano  1850 -

 人間の生理現象である「あくび」。
 眠たい時、退屈な時、疲れた時、緊張した時、車に酔った時など、様々な場面であくびは出てきますよね。あくびのメカニズムはまだ完全に解明できておらず、肺の酸素の交換や顔面のストレッチ、内耳の圧力を調整しようとする、脳の温度を調節しようとするという説が考えられているようです。個人的には内耳の圧力と脳の温度が関係していそうな気がします。(車酔いが激しい人の意見ですw)
 ネットで絵画を見ていた時にたまたまあくびをしている人の絵画を発見し、他にも調べてみたら面白い作品が幾つかあったので記事にしてみました。
 では、あくびをする人の絵画13点をご覧ください。


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アリストテレスの絵画13点。ギリシャの哲学者であり、アレクサンドロス大王の師匠

Rembrandt - Aristotle with a Bust of Homer  1653 -

 アリストテレス(前384-前322)は古代ギリシャで活躍した哲学者です。
 プラトンの弟子であり、プラトンの師匠であったソクラテスと共に西洋最大の哲学者として数えられています。哲学だけではなく、形而上学、倫理学、政治学、宇宙論、自然学(物理学)、気象学、生物学、詩学、演劇学、心理学など多岐に渡る研究により、「万学の祖」と呼ばれています。アリストテレスは人間の本性が「知を愛する(フィロソフィア)」であると考え、それが哲学(フィロソフィー)の語源となりました。また、彼はマケドニア王アレクサンドロス大王の師でもありました。

  トラキア地方のスタゲイロスに生まれたアリストテレスは、幼少期の時に両親を亡くし、義兄の元で暮らしました。十代後半の時にアテナイへ行き、プラトンが主催する学園アカメデイアに学徒として入門します。その20年後にプラトンが亡くなると、アリストテレスは学園を辞めて学友ヘレニアスの勧めでアッソスの町へ行きます。そこでヘルミアスの姪であるピュティアスと結婚し、紀元前342年頃にはマケドニア王の招へいによりアレクサンドロスの教師となりました。

 彼がアレクサンドロス大王となって即位すると、アリストテレスはアテナイへ戻って学園「リュケイオン」を開設しました。かつてのプラトンと同じように、アリストテレスは弟子を呼び、様々な議論を交わしたのです。しかし、紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、状勢が不安定となった為に彼は母方の故郷エウボイア島のカルキスに移動しますが、病に倒れて62歳の生涯を閉じてしまったのです。
 アリストテレスの絵画13点をご覧ください。

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ネルソン提督の絵画13点。トラファルガーの海戦で戦死した、隻眼隻腕の英国の英雄

Portrait of Lord Horatio Nelson by Friedrich Heinr -

 ホレイショー・ネルソン(1758-1805)はイギリスの海軍提督です。アメリカ独立戦争やナポレオンとの戦争にて活躍しました。イギリス史上最大の英雄とされています。
 イングランドのノーフォークにある村の牧師の息子として生まれたネルソンは、父が病弱で貧困だった為に、12歳の時に母方の叔父を頼って海軍へと入隊しました。19歳で昇進試験に合格し、翌年には艦隊の指揮を任されるようになり、カリブ海周辺の諸島を守護しました。30歳の時には未亡人フランシス・ニズベットと結婚します。

 フランス革命の勃発により、地中海方面へ行ってフランス軍と戦争。砂が右目に入って視力を失ってしまいます。1796年には戦隊司令官に命ぜられて翌年には昇進を果たしますが、カナリア諸島のテネリフェ島の戦闘で負傷して右腕を切断し、ネルソンは隻眼隻腕の提督となってしまったのでした。

 その後もネルソンの勢いは止まらず、フランスやデンマークとの海戦に勝利を収めます。そして、1805年には運命のトラファルガーの海戦が行われたのです。フランス・スペインの連合艦隊との海戦に、ネルソンは全く怯むことなく前線に出て戦い、完全勝利を果たしました。これによりナポレオン1世の英国上陸の野望は打ち砕かれたのです。しかし、その代償としてネルソンは敵の銃弾を受けて命を落としたのでした。
 英雄ネルソン提督の絵画13点をご覧ください。

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エマ・ハミルトンの絵画13点。画家のモデルにして、ネルソン提督の愛人となった美女

LadyHamilton ヴィジェ・ルブラン 1790 -

 エマ・ハミルトン(1765-1815)は、イギリスの絵画モデルであり舞踏家。ネルソン提督の愛人として知られています。
 彼女はイングランド北西部のチェシャ―州に生まれ、早くに父を亡くして母に育てられました。本名はエイミー・ライオンであるものの、エマ・ハートと改名して家政婦として働きましたが、その美しさと性に奔放であったせいで辞職が続きました。17歳になった頃にはロンドンの名士の愛人となり、絵画モデルとしても働いていました。

 その後、エマは貴族チャールズ・グレヴィルの愛人となり、彼の友人の画家ジョージ・ロムニーに何枚かの絵画を描いてもらっています。別の女性と婚姻したグレヴィルが、エマをイタリアのナポリのサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの元へ連れていくと、彼はエマを深く気に入り、公式に結婚する事に決めました。エマはナポリで演技や踊りを混ぜ込んだ見世物を披露し、その魅力は国に広まって王妃マリア・カロリーナとも親しくなりました。

 それから、エマは特使としてやって来たホレーショ・ネルソン提督と、夫公認の愛人関係となりました。エマが36歳の時にネルソンとの娘ホレイシアを出産したものの、二年後に夫ウィリアムが亡くなり、ネルソンは出征してしまいます。残された彼女は寂しさのあまり浪費に走り、ネルソンが戦死した時には財産が残っていませんでした。それどころか借金が重なって家を取り上げられ、借金した者の監獄に入れられてしまいます。負債から逃れる為にエマはフランスへ渡ったものの、酒に溺れて50歳の若さで亡くなってしまいました。
 麗しの栄誉からどん底へ。絶世の美女エマ・ハミルトンを描いた絵画13点をご覧ください。

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ベアトリーチェ・チェンチの絵画11点。父の乱暴ゆえに殺害し、処刑された悲劇の少女

attributed to Reni or Sirani  1662 -

 ベアトリーチェ・チェンチ(1577-99年)はローマの貴族で、父親を殺害したとして処刑されてしまった悲劇の女性です。
 父親はフランチェスコで後妻はルクレツィア・ペトローニ、兄はジャコモ、末弟はベルナルド。一家はイタリアのローマにあるチェンチ宮に住んでいました。フランチェスコは周囲から暴力的で不道徳とみなされていましたが、貴族という階級により罪を免れていました。父は息子と妻を虐待し、ベアトリーチェに乱暴を働きました。彼等は被害を訴えましたが、裁判局は何も動いてはくれなかったのです。思い詰めた結果、彼等は父親を殺害する事を決意します。

 1598年、フランチェスコに麻薬を盛って殺そうとするものの失敗。やむなく家族は金槌を使って父を殴り殺してから、遺体をバルコニーから落としました。彼等は事件を隠匿しようとしましたが、殺人がばれてしまい、有罪で死刑を宣告されてしまいます。恩赦を主張したローマの人々の努力も虚しく、サンタンジェロ城の橋で兄ジャコモは四つ裂きの刑に会い、ルクレツィアとベアトリーチェは斬首の刑に処されてしまいます。末弟のベルナルドだけが罪を免れたものの、家族の処刑を見せられたとされています。

 そんな悲劇の家族の話は周囲に広まり、グイド・レーニ(または Elisabetta Sirani)派の人はこちらを振り返る薄幸そうなベアトリーチェ・チェンチの肖像を描きました。すると、何名かの画家がこちらを見つめる眼差しや儚い雰囲気に魅了され、類似作が生まれるようになりました。この作品により、彼女の名が後世に伝わったと言っても過言ではありません。
 では、ベアトリーチェ・チェンチに関わる絵画11点をご覧ください。1点だけ閲覧注意がございます。

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ダンテとベアトリーチェの絵画14点。神曲の作者と永遠の理想女性の素顔と関係性

Andrea Pierini  1853

 13-14世紀のイタリアフィレンツェの政治家であり、有名著書「神曲」の作者であるダンテ・アリギエーリ。そして、彼の永遠の想い人が可憐な女性ベアトリーチェ。
 ダンテが彼女と出会ったのは9歳の時でした。春のお祭カレンディマッジョで同年の少女であるベアトリーチェを見かけ、彼女の事が頭から離れられなくなってしまいます。それから9年後、二人は再会しましたが、会釈をしただけですれ違ってしまうのでした。
 ダンテは恋煩いをしてしまうものの、悟られるのが恥ずかしくて別の二名の女性に数編の詩を送ってしまいます。そのせいでダンテの風評が落ち、それを知ったベアトリーチェは「ふしだらな男」と見なして挨拶すらしてくれなくなってしまったのです。なんたる青春の皮肉な事か・・・^^; こうして失望に沈んだダンテは許嫁である女性と20歳の時に結婚しますが、心はベアトリーチェを想い続けていました。

 ベアトリーチェも銀行家の元へ嫁ぎ、平穏な人生を送るかと思いきや、彼女は24歳という若さで病死してしまいます。その事を知ったダンテは酷いショックを受け、痛手を癒そうと古典文学を読み耽るようになりました。それに触発された彼はベアトリーチェの存在を「永遠の淑女」にして賛美し続けようと、生涯をかけて詩篇を作ろうと決心したのです。こうしてダンテは著書「新生」、「神曲」等を書き、現代まで知られるような詩人となったのでした。
 では、ダンテとベアトリーチェに関する絵画14点をご覧ください。(ほぼダンテなので許してください^^;)

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サーカスの絵画15点。アクロバティックな技で観客を楽しませる曲芸師たちの姿

Circus by George Bellows, 1912 -

 様々な芸や技で観客を魅力し、楽しませる見世物サーカス。
 古代ギリシャやエジプトでは、ジャグリングなどをパフォーマンスする曲芸師がいました。そして、古代ローマの円形競技場で曲芸が催されるようになり、円形を意味する「circle」がサーカスの語源となったようです。(諸説あり)  現代のようなサーカスの形となったのが1770年のイギリスで開催された、「アストリー・ローヤル演芸劇場」とされています。退役軍人のフィリップ・アストリー(1742-1814年)という者が動物芸、曲芸に加え、道化師という概念を新しく取り入れ、白塗りの顔にぶかぶかの服という道化の姿がサーカスには欠かせない要素の一つとなったのです。
 サーカスに関する絵画はやはり18世紀後半~19世紀後半あたりが多く、画家達にとって生まれ変わったサーカスは目新しいものに映ったのだなぁと思います。
 ではサーカスについての絵画15点をご覧ください。

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アレクサンドロス大王の絵画14点。ペルシア、エジプトを統一したマケドニアの英雄王

Alexander The Great Founding Alexandria by Placido Costanzi -

 アレクサンドロス3世(紀元前356-323年)はマケドニア王国の君主です。通称、アレクサンドロス大王と呼ばれています。
 彼はギリシャの伝説の英雄ヘラクレスとアキレスを先祖に持つとされ、ピリッポス2世とイピロスの王女オリュンピアスとの間に生まれました。高名な哲学者アリストテレスを家庭教師に持ち、アレクサンドロス大王は高い教養を身につけました。18歳の時に父親に連れられてアテナ・テーバイと戦争し、勝利を飾ります。しかし、その二年後に父は護衛によって暗殺されてしまいます。

 若くして王位に付いたアレクサンドロス大王。王座を狙う敵を排除し、遠征して全ギリシャを制圧します。その二年後にはペルシアへ遠征して快進撃を続けながら東へ進み、西アジア一部である小アジアを征服します。そのまま南下していき、ペルシアの統治下にあったエジプトへ入ったアレクサンドロス大王は、そこも征服してしまいます。エジプト人に歓迎された彼はファラオとして認められ、アレクサンドロス大王にちなんだ神像や都市が建てられます。その後、彼はペルシア帝国を滅亡させ、中央アジアへと進出していきます。遊牧民達と戦いながらインドへと進みましたが、兵の疲弊により進軍は中断。

 バビロンへと戻ったアレクサンドロス大王はマケドニア、ペルシア、ギリシャの三つの地域を統治しようと、同君連合を作りました。しかし、アラビア遠征を考えていた最中、夜の祝宴中に蜂に刺されて倒れてしまいます。高熱に10日間苦しんだアレクサンドロス大王は、「最強なる者へ帝国を渡す」と言い残して亡くなってしまったのです。彼の死後、異母兄と息子の二人が統治しようとしたものの二人とも暗殺され、アレクサンドロス大王が統治させた帝国は三つに分裂してしまったのでした。
 紀元前の大英雄、アレクサンドロス大王の絵画14点をご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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