メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

歴史

仮面舞踏会の絵画13点。イタリア ルネサンスより流行った、素性を隠す妖しき祭典

Angelo Caroselli - Masquerade -

 仮面舞踏会(マスカレード)は15世紀のイタリアより始まった、仮面を被って素性を隠し参加するダンスパーティーのことです。
 イタリアのヴェネツィアでは、仮面を被って踊る「ヴェネツィア・カーニバル」が1162年頃に興りました。また、中世後期の宮廷内では、特別な機会の時に派手な衣装を着て行進したり、仮装して余興したりする「仮装舞踏会(モリスコ)」が流行っていました。これらのイベントが混ざり合い、仮面を被りながら踊る公的な式典である「仮面舞踏会」は誕生したのです。
 仮面舞踏会は17、18世紀に西洋全土に広がり、上流階級の間で大人気のイベントとなりました。仮面をした者たちは素性が分からないよう工夫を施し、踊ったり話したりしながら誰かを当てるという余興を行っていました。目元だけではなく顔を覆うタイプのものや、装飾をしたものなど様々なデザインの仮面が生まれたのです。仮面舞踏会は人気すぎてトラブルも多く、決闘での死者や暗殺なども起きており、風紀を乱すイベントとして禁止令を出した国王もいたほどでした。仮面舞踏会の文化は現在でも受け継がれており、妖しくも華やかなダンスパーティが密やかに行われているのです。
 仮面舞踏会に関する絵画13点をご覧ください。

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セネカの絵画14点。ネロ帝に命じられ自害した、偉大なるローマの哲学者&政治家

1615 - Peter Paul Rubens -

 セネカ (紀元前1世紀頃-65年) はローマ帝国時代の哲学者、政治家、作家です。
 裕福な地主の次男としてコルドバで生まれたセネカは、10代前半の頃にローマへ移り、教養や雄弁術、哲学などを学びました。しかし、20代の時に大病を患い、療養を兼ねてエジプトのアレクサンドリアへと遠征します。そこでも多くの事を学んだセネカは、十年後にローマへと戻って財務官職を経験した後、元老院議員として選出されます。

 カリグラ帝、クラウディウス帝の治世共に命の危機を乗り越え、セネカはクラウディウスの後妻となったアグリッピナの後ろ盾を得て法務官へと任命されます。アグリッピナは陰謀によって息子ネロを皇帝に仕立てあげ、その家庭教師にセネカを付け、執政官としての役割もセネカに与えました。セネカや外の人々のサポートもあり、ネロは五年の間善政を築きます。しかし、愛人問題により親子関係に深い確執が生じ、アグリッピナはネロの奸計によって殺されてしまいます。次第に暴君として振舞うようになったネロに対してサポートをしきれなくなり、セネカは政界の引退を申し出たのでした。

 家にこもったセネカは幾つかの作品を執筆し、そのまま余生を過ごすつもりでいました。しかし、引退の三年後、彼に悲劇が起こります。ネロを退位させようという陰謀が露見し、その中の一人が「セネカも加担していた」と自白したのです。ネロは自宅に役人を派遣し尋問しましたが、セネカの対応が曖昧だったので自害を命じました。セネカは始めドクニンジンを飲んで中毒死しようとしましたが、死に切れず、風呂場で静脈を切って命を絶ったとされています。セネカが実際に陰謀に加担していたかどうかは、未だに分かっておりません。
 では、波乱の時代に生きた哲学者セネカの絵画14点をご覧ください。

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ネロ帝の絵画14点。母と師を殺めキリスト教徒を迫害した、暴君とされるローマ皇帝

Emperor Nero  by Abraham Janssens 1618 -

 ネロ(37-68年)はローマ帝国の第五代皇帝で、暴君として知名度が高い人物です。
 母はアグリッピナで父はグナエウス。アグリッピナは夫の死と現皇帝カリグラの死により、新しく皇帝となった叔父のクラウディウスと結婚する事になりました。彼女の陰謀によってネロは後継者の第一候補となり、毒キノコ中毒でクラウディウスが急死すると、ネロは弱冠18歳で王位を手に入れる事になりました。その死はアグリッピナが関与しているという説が有力のようです。

 皇帝となったネロは家庭教師である哲学者セネカや、近衛長官のセクストゥスの意見を訊き、始めこそは善政を行っていました。しかし、母との確執や愛人問題によって狂っていってしまうのです。ネロは妻オクタウィアそっちのけで解放奴隷の娘を愛人としていたので、アグリッピナはそれを咎めます。口うるさい母を疎ましく思い始めていたネロは、母を宮殿から追放したあげく、二番目の愛人にまたも口出ししてきた母を殺害してしまいます。

 セネカや外の指南役も引退してしまい、指導する者がいなくなったネロは暴走し、オクタウィアを殺して後妻を娶り、多くの議員と共にセネカを殺し、ローマの大火をきっかけとしてキリスト教徒を迫害します。しかし、民衆の支持率が低下したネロは、68年に元老院に「国家の敵」とみなされてしまいます。ローマ郊外の解放奴隷の家へと逃げたネロは騎馬兵がやって来る音に恐れ、奴隷に命じて自分の喉を切らせて自害したとされています。母や妻や反ネロ派を次々と殺し、残虐な暴君とされたネロでしたが、彼の死に悲しむ者は多く、沢山の花や供物が墓へ供えられたそうです。
 では、皇帝ネロの絵画14点をご覧ください。

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宮廷道化師の絵画16点。君主に仕え批判する、自由奔放たる道化師の姿【第二弾】

A jester with a cat, by Studio of Jacob Jordaens -

 宮廷道化師は中世~近代の西洋において、王や貴族などの支配者層に仕えたエンターテイナーです。
 古代エジプトやギリシャでも、様々な芸を披露して裕福層を楽しませた道化師はいたとされ、ローマ帝国では身体や精神に障害を持つ者を、魔除けとして奴隷にする習慣がありました。中世時代から宮廷道化師(ジェスター)という概念は生まれ、王や貴族に雇われた道化師は、王を楽しませる為にパフォーマンスをしたり、他者がはばかるような言動を進んで言いました。基本、身分は低くペット同然に扱われますが、宮廷道化師にも本当の愚者や、愚人のふりをした賢人など色々なタイプがおり、後者のタイプは良い待遇が与えられる場合もあります。国によってまちまちではあるものの、宮廷道化師は国王の権威が崩れた17~8世紀頃、姿を消していきました。
 では、第二弾である宮廷道化師の絵画16点をご覧ください。

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リチャード三世の絵画13点。シェイクスピアの戯曲にもなった、狡知のイングランド王

George Frederick Cooke as Richard III  1811-12 -

 リチャード三世(1452-85)は、イングランド王国であるヨーク朝の最後の王です。
 いとこのウォリック伯リチャード・ネヴィルに育てられた彼は、兄のエドワード四世が王位に就くと、9歳の時にグロスター公爵の位を得ました。その9年後にウォリック伯はランカスター派に寝返り、エドワード四世は追放されてしまいますが、リチャードは兄を援助し、翌年に王位を復活させています。20歳の時にウォリック伯の娘アン・ネヴィルと結婚し、その領地を我が物にしてリチャードの地位は飛躍的に向上しました。

 1483年にエドワード四世が病死すると、息子のエドワード五世が王位に就いてリチャードが摂政となりましたが、王とその弟はロンドン塔に幽閉されてしまいます。その間にエドワード五世の血筋は不当と決定を下し、リチャード三世として王に即位してしまうのでした。エドワード五世と弟はその後、殺されたと思われます。晴れて王となった彼でしたが、状勢は不安定となって反乱が相次ぎます。一人息子と王妃が続けて病死し、1485年の8月にランカスター派のヘンリー・テューダーが武器を携えて到来。ボズワースの戦いが始まります。リチャード三世は自ら武器を持って獅子奮迅するものの、味方の裏切りにあって戦死してしまうのでした。
 シェイクスピアの戯曲「リチャード三世」において、彼は背骨が曲がった冷酷で欲深き王として書かれています。それにより極悪人としてのイメージがついてしまいましたが、現在ではそこまでではなかった事が証明されております。史実と物語の様子を踏まえながら、リチャード三世の絵画13点をご覧ください。

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幽霊の絵画13点。戯曲や逸話に登場する、西洋美術における不気味なゴーストたち

Mikhail Petrovich 1835-1914 Ivan Terrible  Souls  Victims -

 「幽霊(ゴースト)」と聞くと、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。日本人なら、白い着物を着て足が透明で、頭に三角の布を付けている姿を想像する人が多いのかもしれませんね。幽霊を描いた日本画は葛飾北斎、歌川国芳などが有名どころで、背筋がぞっとするような不気味な作品が数多くあります。
 しかし、幽霊を描いた西洋絵画はどんな作品があるだろうと考えると、あまりピンとこないのではないでしょうか。気になって、調べてみると西洋の幽霊は「戯曲や歴史、聖書に登場する幽霊」が多くを占めていました。誰かに何かを伝えようとする幽霊が多く、呪ってやるぞみたいな幽霊はあまり見られませんでした。しかし、中には不気味な幽霊絵画も・・・。
 では、幽霊にまつわる絵画13点をご覧ください。

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ジル・ド・レの作品12点。ジャンヌを支援したが、欲望の為に少年達を虐殺した軍人

Éloi Firmin Féron 1835 -

 ジル・ド・レ(1405-40)は百年戦争時代に生きた軍人貴族です。
 フランスのブルターニュ地方生まれ。彼が11歳の時に両親が死去してしまい、祖父に育てられます。祖父ジャン・ド・クランは目的の為なら手段を選ばない人であり、彼はその背を見て学んでいきました。祖父は彼を政略結婚に利用し、領主の娘カトリーヌを誘拐して強引に二人を結ばせました。祖父のコネにより軍人となると、ジル・ド・レはシャルル七世の側近に重宝されて軍を扱える立場となりました。1429年のオルレアンの戦いにおいて、ジャンヌ・ダルクに協力して一躍英雄となりますが、彼女がイングランドに捕らえられて処刑されてしまい、ジル・ド・レは領地にこもってしまいます。

 派手好きだった彼は美術品を買い漁ったり、連日豪華な宴を催したりしました。莫大にあった富は尽き始め、自称錬金術師のフランソワ・プレラーティらの影響もあり、錬金術や黒魔術に耽溺してしまいます。正義感がある一方、私利私欲の為なら何事も辞さない側面があるジル・ド・レは、黒魔術の利用の為に町の少年たちを拉致するようになります。悪魔への生贄の為に少年の心臓を捧げていたのですが、じきに辱めと殺人の快楽に目覚めてしまい、多くの少年らは残虐な欲望の為に殺されたのでした。

 近隣ではジル・ド・レが犯人だという噂が流れていましたが、百年戦争の功労者であり名門の出である彼を逮捕するのは、難しい問題でした。しかし、1440年にジル・ド・レは聖職者を捕らえる為にミサ中の教会に軍で押し入り、大罪を犯します。それを口実に大司教は「悪魔崇拝、少年惨殺、掟破りの罪」で告発し、彼は逮捕されます。裁判で恐ろしい行為が次々と暴露され、城からおびただしい少年の死体が出て来ました。犠牲者の数は300~1500名にも上ると伝えられています。同年10月、彼は絞首刑にされました。彼の遺体の周りには人だかりができ、魂が救済されるよう祈りが捧げられていたそうです。
 ジル・ド・レの作品と、青ひげに関する作品12点をご覧ください。

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オダリスクの絵画13点。オリエンタリズムに流行った、エキゾチックなハレムの美女

Odalisque by Jean Baptiste Ange Tissier - コピー

 オダリスクはイスラムの君主(スルタン)に仕え、ハレムにいる寵姫、または女奴隷のことを指します。
 一夫多妻制であるイスラム社会は、ハレムと呼ばれる居室に何名かの女性を住まわせていました。彼女たちは奴隷の身分ではありましたが、スルタンが気に入り、娶ることで妃の身分となることもありました。日本の大奥に近いものを感じますね。18世紀以降、東洋世界に興味を持つ風潮であるオリエンタリズムが西洋で起こり、様々なエキゾチックな絵画が描かれました。その中でオダリスクは最も好まれた主題で、画家たちは退廃的で気だるく、少し危険な香りのする東洋的なセクシー美女をこぞって表現しようとしたのです。
 異国情緒漂う、オダリスクの絵画13点をご覧ください。

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オリエンタリズムの絵画14点。アジア世界に興味を抱き、近代に流行した東方趣味

Pelt Merchant of Cairo  Jean-Léon Gérôme 1869 - コピー

 オリエンタリズムは西アジア周辺への憧れや関心を軸にした、西洋近代の芸術風潮です。東方趣味、異国趣味などと訳せます。18世紀頃に始まったとされ、19世紀頃に最盛期となりました。
 「オリエント」という語は「昇る」という意味から来ており、東側から日が昇る為にその名が付きました。西洋では長い間、東側に属するオスマン帝国と戦争を続けておりましたが、航海技術の発達と共に様々な異文化に触れる機会が増えてきました。東方世界は野蛮で不気味なものではないと分かり、進んで異国を調査する者も多く現れ、異国に対する興味が次第に高まっていくようになります。東方と言うとかなりの数のアジア圏の国が入ってしまいますが、イスラム文化圏の作品が多く見られたり、文化様式が混在したりしている作品があったりします。画家たちはエキゾチックで珍しい文化や風景、人物を、憧憬や興味の念を込めて描いたのです。
 では、オリエンタリズムについての絵画14点をご覧ください。

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ヘロデ王の一族の絵画13点。キリストやヨハネ、パウロに関わる残虐なユダヤの王

Théophile Lybaert  1883 -

 ヘロデ大王(紀元前73年頃-紀元前4年)はローマ時代にユダヤ地区を統治した王です。
 ハスモン朝の王子の側近にアンティパトロスという武将がおり、ヘロデの父親でした。彼はローマの権力者ユリウス・カエサルの信用を得て、カエサルの死後は元老院派に歩みより、ヘロデをガリラヤ地方の知事にさせます。その後ハスモン朝のヒカルノス二世の甥が反逆し、親ローマ派であったヘロデの身にも危機が及びます。ローマへと逃亡したヘロデは元老院からローマの軍勢を貸し与えられ、エルサレムにて反逆者を討伐しました。手柄を得たヘロデはユダヤの分封王となり、ヘロデ朝が成立したのです。
 王位についたヘロデはオクタヴィアヌス派に付き、生き残っていたハスモン朝の血縁者を抹殺しようとします。また、自らに楯突いた者はレビ族の祭司であろうと迷わず処刑し、独裁政治を貫きました。新約聖書においては救世主の到来を恐れてベツレヘムの二歳以下の新生児を虐殺したとされています。しかし、ヘロデ王はローマに準じた大建築物を幾つも建造し、人気を高めました。王の死後は息子三名が分割してユダヤ地区を収め、ガリラヤ地方の領主となったヘロデ・アンティパスがイエス・キリストや洗礼者ヨハネとに関わっていくのです。
 ヘロデ王とその後継者たちの絵画13点をご覧ください。
 
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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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