メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

歴史

幽霊の絵画13点。戯曲や逸話に登場する、西洋美術における不気味なゴーストたち

Mikhail Petrovich 1835-1914 Ivan Terrible  Souls  Victims -

 「幽霊(ゴースト)」と聞くと、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。日本人なら、白い着物を着て足が透明で、頭に三角の布を付けている姿を想像する人が多いのかもしれませんね。幽霊を描いた日本画は葛飾北斎、歌川国芳などが有名どころで、背筋がぞっとするような不気味な作品が数多くあります。
 しかし、幽霊を描いた西洋絵画はどんな作品があるだろうと考えると、あまりピンとこないのではないでしょうか。気になって、調べてみると西洋の幽霊は「戯曲や歴史、聖書に登場する幽霊」が多くを占めていました。誰かに何かを伝えようとする幽霊が多く、呪ってやるぞみたいな幽霊はあまり見られませんでした。しかし、中には不気味な幽霊絵画も・・・。
 では、幽霊にまつわる絵画13点をご覧ください。

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ジル・ド・レの作品12点。ジャンヌを支援したが、欲望の為に少年達を虐殺した軍人

Éloi Firmin Féron 1835 -

 ジル・ド・レ(1405-40)は百年戦争時代に生きた軍人貴族です。
 フランスのブルターニュ地方生まれ。彼が11歳の時に両親が死去してしまい、祖父に育てられます。祖父ジャン・ド・クランは目的の為なら手段を選ばない人であり、彼はその背を見て学んでいきました。祖父は彼を政略結婚に利用し、領主の娘カトリーヌを誘拐して強引に二人を結ばせました。祖父のコネにより軍人となると、ジル・ド・レはシャルル七世の側近に重宝されて軍を扱える立場となりました。1429年のオルレアンの戦いにおいて、ジャンヌ・ダルクに協力して一躍英雄となりますが、彼女がイングランドに捕らえられて処刑されてしまい、ジル・ド・レは領地にこもってしまいます。

 派手好きだった彼は美術品を買い漁ったり、連日豪華な宴を催したりしました。莫大にあった富は尽き始め、自称錬金術師のフランソワ・プレラーティらの影響もあり、錬金術や黒魔術に耽溺してしまいます。正義感がある一方、私利私欲の為なら何事も辞さない側面があるジル・ド・レは、黒魔術の利用の為に町の少年たちを拉致するようになります。悪魔への生贄の為に少年の心臓を捧げていたのですが、じきに辱めと殺人の快楽に目覚めてしまい、多くの少年らは残虐な欲望の為に殺されたのでした。

 近隣ではジル・ド・レが犯人だという噂が流れていましたが、百年戦争の功労者であり名門の出である彼を逮捕するのは、難しい問題でした。しかし、1440年にジル・ド・レは聖職者を捕らえる為にミサ中の教会に軍で押し入り、大罪を犯します。それを口実に大司教は「悪魔崇拝、少年惨殺、掟破りの罪」で告発し、彼は逮捕されます。裁判で恐ろしい行為が次々と暴露され、城からおびただしい少年の死体が出て来ました。犠牲者の数は300~1500名にも上ると伝えられています。同年10月、彼は絞首刑にされました。彼の遺体の周りには人だかりができ、魂が救済されるよう祈りが捧げられていたそうです。
 ジル・ド・レの作品と、青ひげに関する作品12点をご覧ください。

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オダリスクの絵画13点。オリエンタリズムに流行った、エキゾチックなハレムの美女

Odalisque by Jean Baptiste Ange Tissier - コピー

 オダリスクはイスラムの君主(スルタン)に仕え、ハレムにいる寵姫、または女奴隷のことを指します。
 一夫多妻制であるイスラム社会は、ハレムと呼ばれる居室に何名かの女性を住まわせていました。彼女たちは奴隷の身分ではありましたが、スルタンが気に入り、娶ることで妃の身分となることもありました。日本の大奥に近いものを感じますね。18世紀以降、東洋世界に興味を持つ風潮であるオリエンタリズムが西洋で起こり、様々なエキゾチックな絵画が描かれました。その中でオダリスクは最も好まれた主題で、画家たちは退廃的で気だるく、少し危険な香りのする東洋的なセクシー美女をこぞって表現しようとしたのです。
 異国情緒漂う、オダリスクの絵画13点をご覧ください。

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オリエンタリズムの絵画14点。アジア世界に興味を抱き、近代に流行した東方趣味

Pelt Merchant of Cairo  Jean-Léon Gérôme 1869 - コピー

 オリエンタリズムは西アジア周辺への憧れや関心を軸にした、西洋近代の芸術風潮です。東方趣味、異国趣味などと訳せます。18世紀頃に始まったとされ、19世紀頃に最盛期となりました。
 「オリエント」という語は「昇る」という意味から来ており、東側から日が昇る為にその名が付きました。西洋では長い間、東側に属するオスマン帝国と戦争を続けておりましたが、航海技術の発達と共に様々な異文化に触れる機会が増えてきました。東方世界は野蛮で不気味なものではないと分かり、進んで異国を調査する者も多く現れ、異国に対する興味が次第に高まっていくようになります。東方と言うとかなりの数のアジア圏の国が入ってしまいますが、イスラム文化圏の作品が多く見られたり、文化様式が混在したりしている作品があったりします。画家たちはエキゾチックで珍しい文化や風景、人物を、憧憬や興味の念を込めて描いたのです。
 では、オリエンタリズムについての絵画14点をご覧ください。

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ヘロデ王の一族の絵画13点。キリストやヨハネ、パウロに関わる残虐なユダヤの王

Théophile Lybaert  1883 -

 ヘロデ大王(紀元前73年頃-紀元前4年)はローマ時代にユダヤ地区を統治した王です。
 ハスモン朝の王子の側近にアンティパトロスという武将がおり、ヘロデの父親でした。彼はローマの権力者ユリウス・カエサルの信用を得て、カエサルの死後は元老院派に歩みより、ヘロデをガリラヤ地方の知事にさせます。その後ハスモン朝のヒカルノス二世の甥が反逆し、親ローマ派であったヘロデの身にも危機が及びます。ローマへと逃亡したヘロデは元老院からローマの軍勢を貸し与えられ、エルサレムにて反逆者を討伐しました。手柄を得たヘロデはユダヤの分封王となり、ヘロデ朝が成立したのです。
 王位についたヘロデはオクタヴィアヌス派に付き、生き残っていたハスモン朝の血縁者を抹殺しようとします。また、自らに楯突いた者はレビ族の祭司であろうと迷わず処刑し、独裁政治を貫きました。新約聖書においては救世主の到来を恐れてベツレヘムの二歳以下の新生児を虐殺したとされています。しかし、ヘロデ王はローマに準じた大建築物を幾つも建造し、人気を高めました。王の死後は息子三名が分割してユダヤ地区を収め、ガリラヤ地方の領主となったヘロデ・アンティパスがイエス・キリストや洗礼者ヨハネとに関わっていくのです。
 ヘロデ王とその後継者たちの絵画13点をご覧ください。
 
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ローランの歌の挿絵13点。騎士ローランの武勲を称える、フランスの英雄叙事詩

Batalla_Roncesvalles -

 「ローランの歌」はシャルルマーニュの甥ローランを称える、11世紀に成立したフランスの英雄叙事詩です。
 シャルルマーニュには優れた12名の勇士(パラディン)がおり、その中の一人がローランでした。サラセン帝国の支配下にあるイベリア半島を奪い返そうと、彼等はスペインで戦闘していました。戦いは優勢となり、サラセン側の王は停戦交渉を持ち掛け、もしシャルルマーニュがフランク王国へ帰るなら、自分はキリスト教へ改宗して人質をも差し出そう、と言いました。条件を呑もうか考える王に、ローランは「止めよう。罠だ」と、ガヌロンは「受け入れよう」と進言しました。
 結局シャルルマーニュは条件を呑むことにして、使者を誰にしようか悩みます。そこで、ローランは「ガヌロンを推薦する」と言って、それが採用されました。しかし使者の役目は危険がつきもの。ガヌロンは「自分を殺して、領地を乗っ取るつもりか?」と疑心暗鬼に駆られ、ローランへの復讐を目論んでしまいました。

 使者としてサラセン側へ行ったガヌロンは、退却しようとしたシャルルマーニュの軍を背後から襲撃し、ローランを殺害しようと王たちと計画を立てました。フランク王国へ帰ることを決めたシャルルマーニュは、「最後尾を誰にしよう」と言うと、自軍へと戻ったガヌロンはローランを推薦します。殿軍を務めることになったローランの元に、サラセンの大軍が押し寄せてきます。敵の余りの多さに軍は総崩れとなり、ローランはやっとのことで援軍を呼ぼうと角笛を吹きました。裏切りに気付いたシャルルマーニュらは直ぐに戦闘に加わり、更に援軍を寄こします。その間にローランは獅子奮迅の戦いを見せていましたが、親友は命を落とし、遂に彼も力尽きてしまいます。戦争には勝利したものの、英雄は戦場でその命を散らしてしまったのでした。
 中世と近代の二種類から、ローランの歌の作品13点をご覧ください。

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農民の踊りの絵画15点。ブリューゲル一族から広がるフランドルの愉快なお祭り作品

ルーベンス A Peasant Dance (1636-40) -

 農民の踊りは、フランドルの農民たちが結婚式などのお祝いで踊る場面を描いた作品です。
 ピーテル・ブリューゲル(父)の作品が主に知られており、農民の生活を生き生きと描いた初めての画家とされています。彼は裕福層の出身にかかわらず、農民と共に過ごし、お祭を楽しんだそうです。愛想が良くて悪戯好きだったというから、人気者だったのでしょう。ブリューゲルの描いた農民の踊りのモチーフは、後に息子に引き継がれ、後にフランドルの画家、他国へと渡っていきます。その絵画は当時の風習や様式、文化のみならず、農民の楽し気な雰囲気までもが閉じ込められているのです。
 ブリューゲルから派生した農民の踊りの絵画、15点をご覧下さい。

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フランシスコ・ザビエルの絵画13点。始めて日本でキリスト教を伝えた、有名な聖人

Mattia Preti (Il Cavaliere Calabrese), Francis Xavier 17th -

 おそらくこの名を知らない人はいないのではないでしょうか。フランシスコ・ザビエル(1506-52)はカトリック教の宣教師であり、イエズス会の創設者の一人です。また、キリスト教を日本で始めて伝えました。
 彼は現在の北スペイン辺りにあるナバラ王国で地方貴族の家に生まれました。パリ大学に留学し、聖バルブ学院に入っている時、イグナチオ・デ・ロヨラと出会います。彼から強い影響を受けたザビエルは聖職者になることを決意。そして感銘を受けた青年らが集まり、ロヨラを総長にして「巡礼と奉仕、教皇が望むところ何処へでも行こう」と誓いが立てられ、イエズス会が創立されました。

 世界への宣教を目的にしていたイエズス会はポルトガル王ジョアン3世の依頼で、早速インド西海岸のゴアへ旅立ちます。ゴアへ着いた彼等は布教を開始し、そこで日本人と出会いました。ザビエルらは彼の導きで日本を目指し、鹿児島県へ到着します。薩摩国の大名、島津貴久に宣教の許可を得て布教を行い、キリスト教の良さを伝えますが、仏僧との折り合いが悪くなり、肥前国、周防国、京の国へと渡っていきます。徐々に信徒は増えていき、600名程になったと言われています。日本滞在から二年後、ザビエルらは一旦インドへ戻り、日本で布教するには文化に影響を与えている中国から行う方がいいと判断し、中国へ渡ります。しかし、中国への道筋は思いのほか険しく、ザビエルは病を患ってしまい、志半ばで息を引き取ってしまいました。享年47歳でした。その後、遺体はマラッカ経由でゴアに移されて安置され、70年後に聖人として数えられるようになりました。
 異国の地で布教を精力的に行ったフランシスコ・ザビエルの絵画13点をご覧ください。

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暗殺の天使シャルロット・コルデーの絵画12点。フランスの革命者マラーを殺した女性

Charles Louis Müller (1815-1892) -

 シャルロット・コルデー(1768-93)は、ジャコバン派の指導者の一人マラーを暗殺した女性です。
 フランスのノルマンディーに住む貧乏貴族の元に産まれた彼女は、劇作家ピエール・コルネイユの子孫でした。13歳の時に母が亡くなり、修道院へ入りました。読書好きで物静かな少女で、祖先のコルネイユの作品やプルタルコスの作品を愛読していました。革命の煽りにより修道院は閉鎖され、カーン市に住む叔母の元に身を寄せます。国内が荒れていく中、コルデーは革命推進派であるジャコバン派を憎悪し、保守派であるジロンド派を支持するようになりました。争いに敗れてカーンへやって来たジロンド派の議員と会話をして、彼女はジャン・ポール・マラーを殺害しようと思い立ちます。
 1793年、彼女は単身パリへ赴き、マラーの自宅を訪ねます。彼は人民に対して入室を許可していました。皮膚病の為に浴槽に入っていたマラーに、コルデーはカーンで計画されている陰謀のメモを渡します。その時、彼女は隠し持っていたナイフで勢いよく胸を刺したのです!マラーは絶命し、彼女はその日のうちに逮捕され、革命裁判で死刑判決を受けて4日後にギロチンで処刑されてしまいました。誕生日の10日前、享年24歳でした。
 その美貌から「暗殺の天使」とも称された、シャルロット・コルデーの絵画12点をご覧ください。

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マラーの死の絵画13点。恐怖政治を強いたフランス革命指導者は、女に暗殺される

 The Death of Marat -

 ジャン・ポール・マラー(1743-93)は、フランス革命におけるジャコバン派の指導者の一人です。
 マラーはスイスの家庭に生まれ、ヨーロッパ各地で勉学に励んだ後、ロンドンで医者になりました。30代の頃にフランスに呼ばれ、6年間王の弟であるアルトワ伯(シャルル10世)のもとで働きます。彼はその頃から社会体制に不満を抱いており、変革運動を始めていました。1789年に起こったバスティーユ牢獄をきっかけとし、フランス革命が本格的に勃発します。マラーは政府に過激な攻撃を繰り返し、一時はイギリスに亡命するも、数か月後に戻ってテュイルリー王宮の襲撃や、反革命派の虐殺に関わりました。1792年にジャコバン派に所属し、ロベスピエール、ダントンらと指揮を執りました。反対勢力であるジロンド派を攻撃し、勢力を増大させ、1793年1月の議決によってルイ16世とマリー・アントワネットは処刑されてしまいます。その後、国内は大いに荒れ、ジャコバン派は恐怖政治を行い始めます。

 マラーはその時患っていた皮膚病が悪化し、自宅で浴槽に浸かりながら職務を行っていました。万人の面会を許していたマラーの元に、シャルロット・コルデーという女性が訪れます。彼女は陰謀についての話を巧みにして、隠し持っていたナイフで胸を刺してマラーを暗殺してしまいます。コルデーはジロンド派の支持者でした。7月に起こったこの事件は大センセーションを巻き起こし、数々の絵画が描かれました。マラーの死の作品は格好のプロパガンダとなり、ジャコバン派は盛り上がりを見せようとしますが、恐怖政治を糾弾され、同月に指導者ロベスピエールも処刑されてしまいました。
 マラーの死についての絵画13点+αをご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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