メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

画家

老人と美女の絵画13点。金品と欲望の皮肉に満ちた、フランドルで流行した絵画主題

Lucas Cranach the Elder. Ill-matched Lovers -

 年の差婚。現代でもあまりにも年の離れたカップルは話題となり、様々な詮索を受ける対象となりがちですね。
 当時の西洋では、現代以上に年の差婚が行われておりました。純粋な恋愛による年の差婚はあまりおらず、国政や貴族の血統の権力によるものだったり、金品や美貌、名誉の為だったりと、欲望が渦巻いていました。
 老人と若い女(不釣り合いなカップル)という主題は古く、古代ローマの喜劇にも存在するとされていますが、16世紀頃のフランドルやドイツの画家達は、その主題を復活させて皮肉を込めた作品として描きました。老人は欲望がこもった目で娘を見て抱き寄せ、娘はお金や宝石を握ってほくそ笑んでいるというのが一般的に多いですが、娘が嫌がっていたり、逆に若い男と老婆という主題も見られます。
 では、老人と若い娘の絵画13点をご覧ください。

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レンブラント・ファン・レインの絵画13点。光と影を追究し、栄誉と転落を味わった画家

Man with a Falcon on his Wrist (possibly St. Bavo) 1661 -

 レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(1606-69)は、バロック期のネーデルラント(現オランダ)出身の画家です。「光と影の魔術師」という異名を持ち、明暗を強調した画風で知られています。
 8番目の子として生まれたレンブラントは1613年にラテン語学校に入学し、7年後には飛び級でライデン大学へ進学。翌年に画家を志して大学を退学し、歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りして三年間絵画について学びます。更に18歳の時にピーテル・ラストマンに弟子入りし様々な技法を学びました。

 レンブラントは自宅にアトリエを構え、製作にかかりました。同様にラストマンに師事していたヤン・リーフェンスとも知り合い、切磋琢磨しながら技術を向上させ、1628年には弟子を指導するまでになりました。技法研究に熱心であった彼は版画も手掛けるようになり、名声が世に広まってきました。1630年にレンブラントは故郷からアムステルダムへ移り、画商&画家のヘンドリック・ファン・アイレンブルフの工房を借りて制作を続けます。その後、彼のいとこであるサスキアと結婚し、邸宅を購入して大規模な工房を作ります。

 富と名声を得たレンブラント。しかし不幸も舞い込んできました。生まれた三名の子供は立て続けに死去。末っ子のティトゥスを産んだ翌年には、妻が病気になり亡くなってしまいます。「夜警」を手掛けていた頃でした。妻の看病や息子のお守りの為に雇われた未亡人とレンブラントは愛人関係となり、かねてから行っていた様々な骨董品を買い漁る浪費癖、彼の美術表現と依頼者の希望の乖離により、段々と仕事がなくなり資金が底をついて来ました。

 更に家政婦ヘンドリッキエとも愛人関係となったレンブラントは、未亡人と法廷で争って泥沼状態になります。金が底をついた彼は借金を背負って邸宅を手離し、貧民街に移りました。ヘンドリッキエと成人になった息子ティトゥスがレンブラントを支え、画家として細々と暮らしました。浪費癖の治らないレンブラントは借金と返済を繰り返して生活していましたが、ヘンドリッキエが病死。更にティトゥスも急死。最晩年のレンブラントは彼女との子供コルネリアと質素な暮らしをしながら、ひっそりと息を引き取りました。享年63歳でした。

 なかなか波乱万丈な人生を送ったレンブラントですが、彼の名声は400年後の日本においても褪せることなく輝いています。では、ブログでまだご紹介しておらず、更に独断と偏見で決めたレンブラントの絵画13点をご覧ください。

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薄明光線(レンブラント光線)の絵画13点。天空より柱状に降り注ぐ神秘的な光の表現

The-Storm-on-the-Sea-of-Galilee-Rembrandts-painting -

 薄明光線は雲の切れ目から太陽の光が漏れた時、地上へと光線の柱が放射状に降り注いで見える現象です。逆に雲の切れ目から上空に光が注ぐこともあります。
 薄明光線は地域によって、光芒、天使の梯子、天使の階段、ゴッドレイ、ヤコブの梯子、レンブラント光線と、様々な呼び名があります。「レンブラント光線」という呼び名は、バロックの画家レンブラントが薄明光線を好んで描いたことに由来するそうです。この光線を使用することにより、光と闇のコントラストが明確になって非日常性や宗教的な神秘性の表現が可能になりました。この手法はレンブラントのみならず、何名かの画家によっても用いられています。
 では、薄明光線にまつわる光と闇の絵画13点をご覧ください。

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光と闇の幻想画家サシャ・シュナイダーの絵画13点。世に逆らい描く肉体美の追究

Illustration for Karl May’s Von Bagdad nach Stambul  1904 -

 サシャ・シュナイダー(1870-1927)は、ドイツ出身の画家&彫刻家です。本名ラドルフ・カール・アレクサンダー・シュナイダー。
 サンクトペテルブルクで生まれた彼は、父親の死によりドレスデンに移り、19歳の時にドレスデン美術大学の学生になります。1904年にベストセラーの作家であったカール・マイと出会い、彼の作品の挿絵を手掛けるようになりました。その翌年にはWeimar Grand-Ducal Saxon 美術学校の教授に任命されました。

 しかし、シュナイダーは秘密を抱えていました。彼は同性愛者であり、画家のヘルムース・ヤーンと同居していたのです。二人の関係は悪化し、ヤーンが「同性愛者である事をばらす」と脅した為、シュナイダーは当時同性愛が犯罪とされていなかったイタリアへと逃亡しました。その地で画家のロバート・スパイと出会い、共に様々な場所を旅しました。その後、ドイツへと帰国し、第一次世界大戦がはじまる時にはドレスデンの近くのヘレラウに住みました。1918年になると、「Kraft-Kunst」と呼ばれるボディービルダーの育成所を立ち上げました。ここの訓練生の何名かは彼の作品のモデルとなっています。
 糖尿病を患ったシュナイダーは、船旅中に発作を起こして倒れ、命を落としてしまいました。彼はドレスデンのロシュヴィッツの墓地に埋葬され、永遠に眠っています。
 では、聖と悪、罪と許し、肉体美に彩られたサシャ・シュナイダーの作品13点をご覧ください。

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ベルギー象徴主義の絵画14点。世紀末に興った、神話や歴史を題材にした幻想芸術

Death at the Ball, by Felicien Rops, 1875 -

 象徴主義は19世紀後半より始まった芸術運動です。
 この時代は科学的な進歩がめまぐるしく、街並みや自然の風景、時事問題など現実的な側面に目を向ける風潮がありました。しかし、一部の者達はそれに反発し、神話や聖書、伝説などの古典的なテーマを好んで取り上げるようになります。彼等は現実の世界では描写できないような象徴(シンボル)を描きだすことで、生死や宗教性、神秘性などの観念を表現しようとしました。象徴主義はイギリスのラファエル前派より始まり、フランスやベルギーに伝播していきました。
 ベルギー象徴主義の画家はヴィールツやロップス、クノップフなどが代表に上げられます。フランドル地方は古来より独立した芸術形態を持ち、彼等はその流れを受け継いでいます。また、16世紀の画家ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲル(父)からも影響を受け、幻想的で皮肉めいた世界を表そうとする者も現れました。
 ベルギー象徴主義の作品といっても多数ある為、このブログらしく生死をテーマにした作品を取り上げたいと思います。では、14点の絵画をご覧ください。


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テオドール・ジェリコーの絵画14点。馬や事件、狂人を描いて迫真性を追究した画家

Theodore Gericault 1818 - コピー

 テオドール・ジェリコー(1791-1824)は、フランスのロマン主義の画家です。現実の事件や馬や人物画の迫真性を重視した画風で、ロマン派の先駆者とされています。ドラクロワに影響を与えました。
 彼は北フランスのルーアンで生まれ、5歳の頃にパリへと引っ越しています。弁護士の父は画家を志すことを反対していましたが、ジェリコーは夢を諦めきれずに17歳の時にカルル・ヴェルネの元へ弟子入りをしました。ヴェルネは馬や騎馬像の第一人者と呼ばれた人でありましたが、ジェリコーは馬の躍動感、迫力を求めており、師の描く馬は迫真性が足りないと思っていたそうです。その後、彼は一年間ピエール・ナルシス・ゲランの元で修行し、それからはルーブル美術館へ足しげく通って巨匠の作品を参考にするようになりました。
 
 21歳のジェリコーは作品をサロンに出品し金賞を取り、二年後にも作品を出しています。イタリアに旅行に行った後に大作「メデューズ号の筏」を出品したものの、実際の生々しい事件をとり扱っていた為に、母国には受け入れてもらえませんでした。その後二年間イギリスへと滞在し、画力を尚も高めました。しかし、二度に渡る落馬が原因でカリエス(脊髄結核)という病気に罹ってしまいます。フランスに戻った後は、精神異常の方を題材にした10作の連作を手掛けたものの、1824年に病状が悪化してしまい、32歳の若さで命を落としてしまったのでした。
 では、テオドール・ジェリコーの作品14点をご覧ください。閲覧注意の絵画がありますのでご了承ください。

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西洋画家10人の本名はこちら!エル・グレコやボッティチェリ、ボスはあだ名だった

Parmigianino_Selfportrait 1523-24 -

 現代における芸能人や画家、エンターテイナーは芸名や通名を用い、本名を名乗らない者がおります。それは歴史上の画家も同様で、私達が現在普通に呼んでいる名が、実はあだ名という画家もいるのです。通名で呼ばれている画家はルネサンス時代が多く、その名の意味も、呼ばれるようになった経緯も実に様々です。
 では、フラ・アンジェリコやボッティチェリ、エル・グレコやヒエロニムス・ボスなどの10名の画家達の本名と、あだ名の由来を見ていきたいと思います!

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オディロン・ルドンの絵画17点。幻想的で不気味な世界観を手掛けるフランスの画家

spirit-of-the-forest-1890 -

 オディロン・ルドン(1840-1916)は、幻想的で個性あふれる作品を手掛けたフランスの画家です。
 本名はベルトラン・ジャン・ルドン。名は父から由来しているものの、ルドンは母の愛称「オディーユ」からとった「オディロン」という名前を終始用いていました。彼は南フランスの都市ボルドーで裕福な家庭に生まれた次男でしたが、母親は長男を溺愛しており、ルドンは生後二日目にして田舎町ペイル・ルバードへ里子に預けられます。11歳になるまで親元を離れて寂しい思いをして育ったルドンは、絵を描いたり、森を歩いたり、本を読んだりして一人遊びをする内向的な子供となりました。

 厳しい父の言いつけで建築家の試験を受けたものの不合格となり、20歳の頃に植物学者と知り合って微生物の魅力に憑りつかれたルドンは版画を手掛けるようになります。24歳の頃に単身パリへ出た彼は何人かの芸術家の指導を受けました。普仏戦争を生き延びた後はパリで定住し、カミーユ・ファルグと結婚します。個展の開催や画集を出したルドンは徐々に名が売れていくようになりました。彼の作風は独特で、誰も真似ができないものでした。ルドンは孤独な心に住まう無意識を作品に反映させたのです。

 ルドンが46歳の時に待望の長男ジャンが生まれたにも関わらず、直ぐに亡くなってしまいます。この頃の画風はかなり暗く、鬱々としたものでした。しかし、3年後に次男アリが誕生した事でルドンの作風は一変します。色彩が踊るかのようなカラフルなパステル画を手掛けるようになったのです。世間からも作品が認められ、現代美術の最先端として有名な展覧会にも出品しました。ルドンの最期は風邪による免疫力の低下でした。元々病弱だったのと、次男アリが従軍して行方不明となった為に心配が祟ったのでした。死後もルドンの作品は人々に不思議な感覚を与え続け、シュールレアリスト達は彼を偉大な先駆者として見なしているのです。
 では、オディロン・ルドンの絵画17点をご覧ください。

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2018年10月「ルーベンス展―バロックの誕生」の展覧会が東京にて開催される!

ルーベンス展

 2018年10月16日(火)〜2019年1月20日(日)まで、東京の国立西洋美術館にて「ルーベンス展―バロックの誕生 展」が開催されます。近年では最大規模となるルーベンス展となりますので、大注目の展覧会です!
 まだまだ先のことで情報が公開されておりませんが、現在分かる作品と概要をお伝えいたします。

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オーギュスト・ルノワールのマイナー絵画15点。こんな作品も描いた印象派の巨匠

Pierre-Auguste_Renoir Diana als Jägerin 1867 -

 ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)はフランスの印象派の画家です。
 彼はリモージュという町に生まれ、3歳の時にパリに移りました。十代の時に磁器の絵付きや扇子の装飾などの仕事を行い、20歳の時に画家になろうと決意。アカデミズム絵画を手掛けるシャルル・グレールの塾に入り、そこでモネやバジールらと出会い、23歳の時にサロンで初入選を果たします。普仏戦争の後にモネやピサロと共に「第一回印象派展」を行いますが、結果は厳しい批判を受けました。二回、三回の印象派展は芳しくはなかったものの、徐々にファンが現れるようになります。37歳の時に再びサロンに応募したところ入選し、印象派展からは距離を置くようになります。
 
 その二年後にアルジェリアとイタリアを旅行し、古典的な作品に感銘を受けたルノワールは、明確な線を描くようになります。ですが、自らの画風は違うと思った彼はまた温かみのある風合いの裸体画を描き、その頃にはルノワールの名声は高まっていました。しかし、56歳の時に自転車事故でリウマチを発症、以後は病気と闘いながらの作品制作となります。晩年は南フランスに移り住み、家族や風景、裸婦などをモチーフにして数々の作品を生み出しました。名声は西洋中に広がり、マティスやピカソなど若き画家が自宅訪問したと伝えられています。その頃彫刻にも興味を抱き、彫刻デッサンを手掛けるようになります。4000点以上作品があるとされる多産の画家ルノワールは、1919年12月に肺の血液が異常に増える肺うっ血という病により亡くなりました。享年78年でした。

 ルノワールの作品は光に満ちた風景画や人物画、水浴画が多いですが、趣向を変えて神話や物語に関連した、ちょっとマイナーな作品をご紹介したいと思います。あくまでも主観的なものなので、「これメジャーじゃん!」と思ってもお許しください。
 では、ルノワールのマイナーな作品15点+αをご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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