メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

聖人

マグダラのマリアの悔悛の絵画13点。己の罪を反省する聖女を描いた、人気の主題

1533 ティツィアーノ -

 マグダラのマリアは自らの罪を悔い改め、キリストに付き従った聖女です。
 キリストが磔刑され、三日後に復活して天へと昇った後、彼女は兄のラザロと姉のマルタと一緒にフランスのマルセイユへと渡りました。そこで布教活動を行い、晩年には洞窟で隠遁生活を行いました。その生活は30年余り続き、亡くなったとされています。十字架と頭蓋骨を前にし、自らの罪を悔悛する主題は人気があり、多くの画家に描かれています。
 早速マグダラのマリアの悔悛についての絵画13点をご覧ください。

→ マグダラのマリアの人生についての絵画を見たい方はこちら

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使徒ヨハネの絵画14点。十二使徒であり福音書記ともされる、キリストの愛弟子

Guido Reni -

 使徒ヨハネは新約聖に登場するキリストの弟子です。十二使徒の一人であり、洗礼者ヨハネと区別する為に「使徒」や「福音記者」などの肩書きを付けています。
 彼は兄のヤコブと一緒にガラリヤで漁師を営んでいましたが、キリストと出会って弟子となりました。ペドロ、ヤコブらとともに最も重要な愛弟子となり、信仰を支え続けました。最後の晩餐の場面では「裏切者は誰ですか」とキリストのすぐ隣で問いかけています。キリストの磔刑の際は十二使徒の中でただ一人十字架の下にいたとされ、聖母マリアとマグダラのマリアと共に絵画に描かれています。

 十二使徒達が悲惨な死に方で殉教していく中、ヨハネだけが殉教を免れたとされています。ただ、ローマの迫害の際にヨハネは煮えたぎる油が入った大釜に入れられて殉教する所でしたが、奇跡的に助かりました。その後、パトモス島へ島流しにあい、そこで神の啓示にあって「ヨハネの黙示録」を書き上げたのでした。(使徒ヨハネと福音書記のヨハネは別人物であるという説もあります) 老齢になって釈放されたヨハネはトルコのエフェソスへと戻り、余生を終えたそうです。
 キリストの愛弟子、使徒ヨハネの絵画14点をご覧ください。

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マグダラのマリアの絵画13点。罪を悔悛しイエス・キリストと共に歩んだ愛深き聖女

Bernardino Luini -Maria Maddalena -

 マグダラのマリアは新約聖書に登場する、キリストに付きそう聖女です。聖母マリアと混同を避ける為、出身地を前に冠してマグダラのマリアと呼んでいます。
 一説にはキリストの友であるラザロとマルタの姉妹とされています。富と美貌によって快楽に溺れ、「罪深い女(娼婦と関連する)」と呼ばれるまでになりました。キリストと出会った事で自らの罪を深く悔い、共に伝道の道を歩みました。マグダラのマリアはキリストの足に涙を落とし、自らの長髪で拭い香油を塗ったとされている為、香油壺を持ったり側に置かれたりしている絵画が多いです。ラザロの蘇生、キリストの磔刑&復活などの重要な場面にも彼女は登場しています。キリストの昇天後はフランスのマルセイユで布教に努め、晩年は洞窟で隠遁生活を行ったそうです。
 聖母マリアと同じくらい有名な聖女である、マグダラのマリアについての絵画13点をご覧ください。

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聖カタリナの神秘の結婚の絵画13点。聖母に導かれ、イエス・キリストと結婚した聖女

Parmigianino -

 アレクサンドリアの聖カタリナは(287-305年)は「十四救難聖人」に数えられ、イエス・キリストと結婚した聖女とされています。
 アルメニア王の娘として生を受けた彼女は、周囲の者から結婚して欲しいと催促されても頑なに拒否していました。カタリナは血筋、富、知恵、容姿いずれにおいても自分より勝る者としか結婚しないと宣言していたのです。かなりの才女で美貌である彼女の要望に応える男性を知る者は誰もおりません。彼女は完璧なる理想の男性を待ち焦がれていました。

 そんな折、カタリナの元に隠者アドリアヌスがやってきます。彼は聖母マリアとキリストの使いで、彼女に教えを説きながら砂漠へといざないます。その先には豪華な修道院があり、聖人たちに導かれて聖母の元へ到着しました。カタリナを歓待したマリアは新しい衣服と洗礼を行うよう言い、身を清めた彼女はキリストの御前へと赴きます。マリアが「貴方への愛ゆえに地上の全てを捨てたカタリナが来ております」と告げると、キリストは「妻よ。手を出しなさい」と言い、カタリナの指に聖なる指輪をはめ込んだのでした。(カタリナがキリストと結婚する幻想を見たという説もあります)
 この「神秘の結婚」と呼ばれるテーマは人気のある主題だったようで、多くの作品が残されています。様々な年齢のキリストを見比べながら、神秘の結婚についての絵画13点をご覧ください。

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アレキサンドリアの聖カタリナの絵画14点。車輪の拷問器具を壊した知的な聖女

Bartolomeo Cavarozzi Santa Catalina de Alejandría -

 アレクサンドリアの聖カタリナ(287-305年)は「十四救難聖人」に数えられる聖女です。シエナの聖カタリナという同名の聖女がいる為、アレクサンドリアと出身地を前に付けて区別しています。
 アルメニア王の娘として生まれた彼女は最高の教育を受け、知・美・血・富・心の全てにおいて自分に勝る男としか結婚しないと宣言していました。この頃、アドリアヌスという隠者が聖母マリアの導きを得てカタリナの元へ現れ、宗教の教えを説いてキリスト達の所へ連れて行きました。洗礼を受けたカタリナは完璧な存在であるキリストと会い、指輪を授けられて婚約したとされています。このシーンは「神秘の結婚」として、多くの絵画が残されています。

 しばらくして、アレクサンドリアにローマ皇帝マクセンティウスが訪問してきました。皇帝はキリスト教を迫害していた為、カタリナはその誤りを説こうとしました。彼女は皇帝が差し向けた50人の異教の賢者を論破し、彼等を改宗させてしまいます。皇帝はカタリナを口説こうとして拒否された為に怒り、彼女を牢屋へ入れて12日間放置します。牢屋に入れられている間、彼女は王妃や高官、兵士200名などにキリストの教えを説き、改宗させました。食べ物はキリストの使いである白鳩が運んで来たそうです。

 まさかの事態に皇帝は更に怒り、刃付きの車輪という拷問器具を使ってカタリナを痛めつけようとしました。しかし、彼女が祈ると車輪はバラバラに壊れてしまったのです。改宗した王妃や高官たちが皇帝に抗議した為、皇帝は彼等をも処刑してしまいました。「異教になるなら助けてやる」と言う皇帝に、カタリナは頑なに拒否を示し、遂に斬首されてしまったのでした。彼女の首からは血ではなくミルクが流れ出たとされています。
 では、アレクサンドリアの聖カタリナについての絵画14点をご覧ください。

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聖女アポロニアの絵画14点。歯を全部抜かれて殉教した、歯にまつわる守護聖人

Guido Reni -

 アポロニアはローマ時代のアレクサンドリア(エジプト)で、歯を抜かれて殉教した聖女です。
 彼女はキリスト教会内で非常に尊敬を集めていました。しかし、248年のローマ建国1000年祭の式典で、詩人が「災難が降りかかるだろう」と予言します。それによって国内は混乱し、怒りの矛先はキリスト教徒へ向けられました。4世紀にコンスタンティヌス1世がキリスト教を国教と認めるまで、肩身の狭い立場にあった彼等は、民衆の恰好の餌食となってしまったのです。
 聖アポロニアは捕らえられ、異教に改宗しろと迫られます。しかし、彼女は拒否したばかりか異教の像を破壊したのです。怒った民衆は やっとこ で歯を全て引き抜くという拷問を行います。(殴って歯を折ったとも) 彼等は城門の外に薪をつみ、火を付けて「改宗しなかったら生きながら燃やしてやる」と脅しました。聖アポロニアは怯むことなく自らその炎の中へ入っていき、殉教したのでした。
 「歯」にまつわる聖アポロニアの絵画14点をご覧ください。少しだけ閲覧を注意してくださいね。

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使徒トマスの疑いの絵画15点。キリストの復活が信じられず、傷口に指を入れてしまう

 1790 -

 「疑い深いトマス」という主題は、本当にキリストが復活したかどうかを疑った使徒トマスが、手や脇腹の傷を見て触ったことで信用した物語です。
 ゴルゴダの丘にて磔刑されて三日後、キリストは墓石の中より復活を果たしました。マグダラのマリアや女性たち、二人の弟子が死んだはずの救世主を目撃します。その話は使徒達にも伝わり、考えていると突然彼等の中央にキリストが出現し、「君たちに平和があるように」と言いました。使徒たちは非常に驚き、幽霊を見たと思いました。そんな使徒達に対し、キリストは「手足を触ってみなさい」と伝えてから皆の前で焼き魚を食べてみせたので、彼等はやっと信じました。しかし、その場には使徒トマスは不在でした。

 トマスは皆から「主は復活なさった!」という話を聞いてもなかなか信じようとしませんでした。「私は手に釘の後を見てそこに指で触れ、脇の傷にこの手を入れてみなければ信じられない」と頑なに宣言したのです。その八日後。トマスを含めた使徒の元にキリストが再登場します。以前と同じことを言い、キリストは疑い深いトマスを呼びます。そして手を差し出して「この傷をよく見て触れてみなさい」と言い、「さぁ、私の脇腹に手を入れてみるのです」と言ったのです。トマスは恐る恐るそれらを行い、復活を心から信用しました。キリストはトマスに「貴方は私を見て信じましたが、私を見たことがなく信じる者は幸いなのです」と伝えたそうです。
 キリストの脇腹にそーっと指を入れる使徒トマスの絵画、15点をご覧ください。

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聖ヒエロニムスの絵画16点。聖書をラテン語に翻訳し、ライオンを助けた過激な聖人

Matthias Stom  17th -

 聖ヒエロニムス(347年頃―420年)は聖職者と神学者であり、聖書をラテン語に翻訳しました。本名はエウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス。
 彼は現在クロアチアになっている地帯ダルマティアに生まれました。始めはキリスト教に興味がなく、古典を熱心に勉強して各地を転々としていましたが、20代後半頃に重病を患ってしまいます。これを期に神学に身を捧げることを決心し、シリアの砂漠で隠遁生活を送りました。聖職者となった彼はローマで教皇ダマスス1世の庇護を受けます。当時、聖書にはラテン語訳のものはあっても断片的なもので、皆が理解できる完全版というものはありませんでした。故にダマスス一世の命でヒエロニムスはラテン語の聖書を作ろうと、多様な聖書を使って翻訳作業を行いました。
 教皇が崩御すると、彼はエルサレム、エジプト、ベツヘレムなどへ赴き、405年頃にラテン語版聖書を完成させます。この聖書はすぐに西洋周辺で用いられるようになり、校訂を繰り返しながらも現代に至るまでラテン語聖書の決定版としての地位を保ち続けているのです。
 バイリンガルの知識人であり、過激な性格であった聖ヒエロニムスの絵画、16点をご覧ください。

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ラザロの復活の絵画14点。キリストの奇跡によって死後4日目に蘇生する聖人

フアン・デ・フランデス  1514 -

 ラザロは死を迎えたものの、キリストによって復活した聖人です。
 「ヨハネによる福音書」によれば、ある日キリスト一行は友人であるラザロが病気であるという知らせを受けます。彼等は急いで駆けつけたものの、既に手遅れとなり、死後4日が経っていることを知りました。キリストは大層悲しんで涙を流しましたが、墓の前に立ってラザロの妹マルタに「石を取り除けて欲しい」と言います。彼女は「4日目なので臭っておりましょう」と拒否しようとしますが、キリストは「信じるなら神の栄光が見られます」と答えました。人々が石をどかすと、キリストは「ラザロ、出てきなさい」と言いました。するとどうでしょう。死んだはずのラザロが何事もなかったかのように、布を巻いたまま歩いて来たではありませんか。この復活を見た人々は仰天し、キリストの奇跡を信じたとされています。
 伝承によるとラザロはその後、トルコ南に位置する島キプロスの主教になったとされています。キプロス島にある聖ラザロ教会の地下にラザロの墓地があります。別の伝説ではマルタと末妹マリア(聖母とは別人)と共にフランスの都市へ着き、マルセイユで布教に臨んだとされています。
 キリストの奇跡の一つ、ラザロの復活の絵画14点をご覧ください。

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フランシスコ・ザビエルの絵画13点。始めて日本でキリスト教を伝えた、有名な聖人

Mattia Preti (Il Cavaliere Calabrese), Francis Xavier 17th -

 おそらくこの名を知らない人はいないのではないでしょうか。フランシスコ・ザビエル(1506-52)はカトリック教の宣教師であり、イエズス会の創設者の一人です。また、キリスト教を日本で始めて伝えました。
 彼は現在の北スペイン辺りにあるナバラ王国で地方貴族の家に生まれました。パリ大学に留学し、聖バルブ学院に入っている時、イグナチオ・デ・ロヨラと出会います。彼から強い影響を受けたザビエルは聖職者になることを決意。そして感銘を受けた青年らが集まり、ロヨラを総長にして「巡礼と奉仕、教皇が望むところ何処へでも行こう」と誓いが立てられ、イエズス会が創立されました。

 世界への宣教を目的にしていたイエズス会はポルトガル王ジョアン3世の依頼で、早速インド西海岸のゴアへ旅立ちます。ゴアへ着いた彼等は布教を開始し、そこで日本人と出会いました。ザビエルらは彼の導きで日本を目指し、鹿児島県へ到着します。薩摩国の大名、島津貴久に宣教の許可を得て布教を行い、キリスト教の良さを伝えますが、仏僧との折り合いが悪くなり、肥前国、周防国、京の国へと渡っていきます。徐々に信徒は増えていき、600名程になったと言われています。日本滞在から二年後、ザビエルらは一旦インドへ戻り、日本で布教するには文化に影響を与えている中国から行う方がいいと判断し、中国へ渡ります。しかし、中国への道筋は思いのほか険しく、ザビエルは病を患ってしまい、志半ばで息を引き取ってしまいました。享年47歳でした。その後、遺体はマラッカ経由でゴアに移されて安置され、70年後に聖人として数えられるようになりました。
 異国の地で布教を精力的に行ったフランシスコ・ザビエルの絵画13点をご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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