メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

イギリス

エマ・ハミルトンの絵画13点。画家のモデルにして、ネルソン提督の愛人となった美女

LadyHamilton ヴィジェ・ルブラン 1790 -

 エマ・ハミルトン(1765-1815)は、イギリスの絵画モデルであり舞踏家。ネルソン提督の愛人として知られています。
 彼女はイングランド北西部のチェシャ―州に生まれ、早くに父を亡くして母に育てられました。本名はエイミー・ライオンであるものの、エマ・ハートと改名して家政婦として働きましたが、その美しさと性に奔放であったせいで辞職が続きました。17歳になった頃にはロンドンの名士の愛人となり、絵画モデルとしても働いていました。

 その後、エマは貴族チャールズ・グレヴィルの愛人となり、彼の友人の画家ジョージ・ロムニーに何枚かの絵画を描いてもらっています。別の女性と婚姻したグレヴィルが、エマをイタリアのナポリのサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの元へ連れていくと、彼はエマを深く気に入り、公式に結婚する事に決めました。エマはナポリで演技や踊りを混ぜ込んだ見世物を披露し、その魅力は国に広まって王妃マリア・カロリーナとも親しくなりました。

 それから、エマは特使としてやって来たホレーショ・ネルソン提督と、夫公認の愛人関係となりました。エマが36歳の時にネルソンとの娘ホレイシアを出産したものの、二年後に夫ウィリアムが亡くなり、ネルソンは出征してしまいます。残された彼女は寂しさのあまり浪費に走り、ネルソンが戦死した時には財産が残っていませんでした。それどころか借金が重なって家を取り上げられ、借金した者の監獄に入れられてしまいます。負債から逃れる為にエマはフランスへ渡ったものの、酒に溺れて50歳の若さで亡くなってしまいました。
 麗しの栄誉からどん底へ。絶世の美女エマ・ハミルトンを描いた絵画13点をご覧ください。

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リチャード三世の絵画13点。シェイクスピアの戯曲にもなった、狡知のイングランド王

George Frederick Cooke as Richard III  1811-12 -

 リチャード三世(1452-85)は、イングランド王国であるヨーク朝の最後の王です。
 いとこのウォリック伯リチャード・ネヴィルに育てられた彼は、兄のエドワード四世が王位に就くと、9歳の時にグロスター公爵の位を得ました。その9年後にウォリック伯はランカスター派に寝返り、エドワード四世は追放されてしまいますが、リチャードは兄を援助し、翌年に王位を復活させています。20歳の時にウォリック伯の娘アン・ネヴィルと結婚し、その領地を我が物にしてリチャードの地位は飛躍的に向上しました。

 1483年にエドワード四世が病死すると、息子のエドワード五世が王位に就いてリチャードが摂政となりましたが、王とその弟はロンドン塔に幽閉されてしまいます。その間にエドワード五世の血筋は不当と決定を下し、リチャード三世として王に即位してしまうのでした。エドワード五世と弟はその後、殺されたと思われます。晴れて王となった彼でしたが、状勢は不安定となって反乱が相次ぎます。一人息子と王妃が続けて病死し、1485年の8月にランカスター派のヘンリー・テューダーが武器を携えて到来。ボズワースの戦いが始まります。リチャード三世は自ら武器を持って獅子奮迅するものの、味方の裏切りにあって戦死してしまうのでした。
 シェイクスピアの戯曲「リチャード三世」において、彼は背骨が曲がった冷酷で欲深き王として書かれています。それにより極悪人としてのイメージがついてしまいましたが、現在ではそこまでではなかった事が証明されております。史実と物語の様子を踏まえながら、リチャード三世の絵画13点をご覧ください。

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アーサー王の絵画13点。円卓の騎士を率い、国家統一を果たした伝説のブリテン王

Charles Ernest Butler, King Arthur, 1903 -

 アーサー王は5世紀後半~6世紀前半に生きた、ブリテン人の伝説の王です。
 彼はケルトの伝承において有名な存在なので、まとまった歴史や物語があるかと思いきや、意外にも原典となる作品は存在しておりません。中世の歴史書や騎士道物語に登場するアーサー王は設定や出来事が異なっており、現在伝わっているアーサー王という存在はそれらを一纏めにしたものと言えそうです。中世初期から彼に関する史実はちらほらとありましたが、1138年にジェフリー・オブ・モンマスが書いた歴史書「ブリタニア列王史」によって、アーサー王の伝説が世界中に広まることになりました。ジェフリーが描くアーサー像はサクソン人に勝利し、ブリテンやアイルランド、アイスランド、ガリアなどを含めた大帝国を築いたとされています。この時点で既にアーサー王の物語の要素が入っており、12世紀にランスロットと聖杯のエピソードが追加され、中世時期において栄華を極めましたが、その後廃れてしまいました。人気が復活したのは19世紀になってからで、現代においても物語は愛され読み続けられています。
 では、物語のあらすじを見つつ、アーサー王の絵画13点をご覧ください。

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悲劇の女王ジェーン・グレイの絵画13点。王権争いで9日目に廃位、後に処刑される

Paul Delaroche 1833 -

 ジェーン・グレイは1537年-54年に生きたイングランドの女王です。王権争いによって九日後に廃位させられ、その七か月後に処刑されてしまいました。その為、「九日間の女王」とも呼ばれています。
 政治家であるジョン・ダドリーは、自らの血統者を王位に継がせたいと考えていました。エドワード6世が重病にかかった為、好機とばかりに自分の息子ギルフォードを王の血統を継ぐジェーン・グレイと結婚させます。ジェーンは前王ヘンリー8世の妹の孫にあたります。エドワード6世が病死をすると、ジョン・ダドリーはジェーンの王位を宣言し、女王に仕立てあげるものの、王の姉にあたるメアリー1世(ブラッディ・メアリ)がサフォークで支持派を集め、ロンドンの枢密院が彼女を王女として認めました。ジェーン・グレイが女王でいられたのは、わずか九日間でした。

 女王から一転、反逆者の罪を被せられたジェーンと夫ギルフォードはロンドン塔へ幽閉されてしまいます。首謀者であるジョン・ダドリーは一か月後に処刑されましたが、メアリー1世は夫妻に恩赦を与える気でいました。しかし、メアリー1世がスペイン王フェリペ2世と結婚すると発表するや否や、民衆や政治界の間で猛烈な反対が起こりました。その混乱状態の最中、女王は一部の議員の説得を受け、ジェーンとギルフォードの処刑を決定するのです。それは王位の立場を危うんだ故の判断でしたが、二人にそのような気はありませんでした。廃位から7か月後の2月12日、ジェーン・グレイはわずか16歳、ギルフォードは19歳で処刑されてしまいました。
 悲劇の女王ジェーン・グレイの絵画13点をご覧ください。

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ロンドン ナショナル・ギャラリーの5つの展覧会をご紹介 【2017年-2018年開催】

ナショナル・ギャラリー展覧会2017‐2018

 ロンドンにある美術館「ナショナル・ギャラリー」にて、2017年~2018年に行われている展覧会5つをピックアップしました!ミケランジェロの展覧会や、ファン・エイクとラファエル前派の展覧会など、どれも魅力的なものばかりなので、早速ご覧下さい^^


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プロフィール
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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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