メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

サロメ

ヘロデ王の一族の絵画13点。キリストやヨハネ、パウロに関わる残虐なユダヤの王

Théophile Lybaert  1883 -

 ヘロデ大王(紀元前73年頃-紀元前4年)はローマ時代にユダヤ地区を統治した王です。
 ハスモン朝の王子の側近にアンティパトロスという武将がおり、ヘロデの父親でした。彼はローマの権力者ユリウス・カエサルの信用を得て、カエサルの死後は元老院派に歩みより、ヘロデをガリラヤ地方の知事にさせます。その後ハスモン朝のヒカルノス二世の甥が反逆し、親ローマ派であったヘロデの身にも危機が及びます。ローマへと逃亡したヘロデは元老院からローマの軍勢を貸し与えられ、エルサレムにて反逆者を討伐しました。手柄を得たヘロデはユダヤの分封王となり、ヘロデ朝が成立したのです。
 王位についたヘロデはオクタヴィアヌス派に付き、生き残っていたハスモン朝の血縁者を抹殺しようとします。また、自らに楯突いた者はレビ族の祭司であろうと迷わず処刑し、独裁政治を貫きました。新約聖書においては救世主の到来を恐れてベツレヘムの二歳以下の新生児を虐殺したとされています。しかし、ヘロデ王はローマに準じた大建築物を幾つも建造し、人気を高めました。王の死後は息子三名が分割してユダヤ地区を収め、ガリラヤ地方の領主となったヘロデ・アンティパスがイエス・キリストや洗礼者ヨハネとに関わっていくのです。
 ヘロデ王とその後継者たちの絵画13点をご覧ください。
 
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「生首」の絵画12選。サロメにユディトにダヴィデ、聖人など悲惨な話の場面をご紹介

Bernardino Luini 1485 - 1532 -

 人体から切り離された首を「生首」と私たちは呼んでいます。
 首は古代では勝利の象徴となっており、戦場で将軍を討ち取ったかが分かるように、首を斬り落として自国へ持ち帰った事が由来となります。絵画における生首の登場は、「旧約聖書」「(ギリシア)神話」「聖人崇拝」「斬首された罪人」の四つに大まかに分けられます。それらの中では戦利品という理由を持つ生首もありますし、死の象徴としての生首、その人のシンボルとしての生首もあります。
 7種類のパターンに分けた生首の絵画、12点をご覧ください。閲覧注意になるので、グロテスクが苦手な方はご遠慮ください!


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洗礼者ヨハネの首を所望する、悪女サロメの絵画10選。妖艶な踊りで求めるは首…

Guido RENI; 1640 - コピー

 サロメは1世紀頃に古代パレスチナで生まれた女性で、「ユダヤ古代史」や新約聖書の「福音書」にその存在が書かれています。父はユダヤの王子ヘロデ・ピリッポス、母は王の孫のヘロディア。

 ある日、サロメと母ヘロディアは義父の異母兄弟であるアンティパスの宴へ招かれました。屋敷の牢屋には洗礼者ヨハネがいました。ヘロディアとアンティパスが不倫関係であり、結婚をしようとしていることを糾弾したのが、捕まった原因です。祝宴は楽しげに催され、サロメはそこで極上の舞を踊ります。一説には服を一枚ずつ脱いでいくセクシーな踊りとも言われていますが、その踊りは定かではありません。妖艶な舞に大喜びしたアンティパスは「お前の望むものを褒美に取らせよう」と言います。サロメは間髪入れず「ヨハネの首を」と答えます。

 結婚を非難したヨハネを母アンティパスは強く憎んでおり、娘にそう言うよう仕向けたからです。アンティパスは祝宴の場だったので困りましたが、誓った手前、約束を破る訳にはいきませんでしたので、衛兵にヨハネの首を斬ってくるよう命じました。衛兵は牢屋へ行ってヨハネの首を斬り、盆に載せてサロメに渡しました。
 聖人の首を報酬として願ったサロメは悪女(ファム・ファタール)として中世から近代まで、多くの画家に描かれました。盆を持った姿は共通しますが、首に対する反応は様々で、喜んでいる姿もあれば顔をそむけている姿もあります。
 母の陰謀によって悪女にされてしまったサロメの姿を紹介します。一部閲覧注意です。


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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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