メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

フランス

メリュジーヌの絵画13点。フランス伝承で語られる半身が蛇である美女の異類婚姻譚

Book of the Holy Trinity Late 15th -

 メリュジーヌはフランスの伝説に登場する、上半身が美女で下半身が蛇の姿をしている人物です。ドラゴンの翼が生えているともされています。
 1397年にジャン・ダラスという人が「メリュジーヌ物語」という散文を書き、その数年後にクートレッドという人もメリュジーヌについての散文を記し、メリュジーヌの存在が広く知られるようになりました。それ以前にはメリサンドという名で民話に登場していたそうです。
 物語によると、ポワトゥー伯のレイモンはある日、メリュジーヌと会って愛し合うようになります。彼女は「土曜日に私を見ないで」という事を条件に結婚を承諾します。二人は10人の子をもうけ、富栄えて裕福になりました。しかし、レイモンは悪い噂を耳にしたせいで約束を破り、沐浴中のメリュジーヌを見てしまいます。その時の彼女は下半身が蛇という恐ろしい姿をしていました。メリュジーヌは母親の呪いによって一日のみ蛇の姿となってしまっていたのです。
 秘密を知られてしまった彼女は「もう貴方と共にいられません」と竜の姿になり、城から飛び立っていったそうです。しかし、幼い子供を育てる為に定期的にこっそりと城に戻っていたとか。また、この城の血統の誰かが亡くなる時、メリュジーヌは戻って嘆き悲しむとされています。
 では、メリュジーヌにまつわる絵画13点をご覧ください。

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サン・バルテルミの虐殺の絵画12点。カトリックがプロテスタントを殺戮した悲しき事件

Joseph-Nicolas Robert-Fleury -

 サン・バルテルミの虐殺は1572年8月24日のフランスで、カトリック教徒がプロテスタント教徒を大虐殺した事件です。
 フランスでのカトリックはプロテスタントの事をユグノーと呼んでおり、1562-98年に渡って双方の間でユグノー戦争が起きていました。そんな折、国王シャルル9世の母カトリーヌ・ド・メディシスが、二つの教徒の和解を目指そうと、プロテスタントの指導者ナバラ王アンリと、王の妹であるマルグリットを結婚することを提案しました。1572年8月に結婚式は執り行われ、プロテスタントの中核であるコリニー提督など多くの貴族たちがパリに訪れ、結婚を祝いました。
 しかし、コリニー提督が狙撃される事件が起きて双方との溝は更に深まる事態となり、その二日後のサン・バルテルミの祝日に大虐殺は起きてしまいます。カトリックの強硬派がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命によりプロテスタント派の貴族が大勢殺されます。その波紋は市民にまで及び、市内だけではなく地方でもプロテスタントの虐殺は行われてしまいました。その犠牲者は1~3万人と考えられています。
 では、サン・バルテルミの虐殺についての絵画12点をご覧ください。

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デカメロンの絵画12点。10名の男女が数多の物語を綴るボッカチオ作の歴史的文学

Xaver Winterhalter Decameron 1837 -

 「デカメロン」は14世紀半ばにジョバンニ・ボッカチオにより制作された物語集です。
 当時大流行したペストから逃れる為に、フィレンツェの郊外へと引きこもった10名の男女が時間を潰そうと話をするという内容で、一人が10話ずつ語り、全100話あります。デカメロンという名はギリシャ語の「10日(deka hemerai)」という意味に由来し、「十日物語」とも呼ばれています。話される物語は日によってテーマが決められており、それにちなんだ話がされます。

1. 自由テーマ
2. 多くの苦難をへたのち成功や幸福を得た人の話
3. 長い間熱望したもの、あるいは失ったものを手に入れた話
4. 不幸な恋人たちの話
5. 不幸のあとに幸福に巡り合う恋人たちの話
6. とっさのうまい返答で危機を回避した人の話
7. 夫を騙した妻の話
8. 男が女を、女が男を騙す話
9. 自由テーマ
10. 気高く寛大な行為についての話
―Wikipediaより抜粋
 では、男女が語らうデカメロンについての絵画12点をご覧下さい。


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ノートルダムの鐘の絵画13点。男女の愛憎悲劇を描いた、ヴィクトル・ユゴーの小説

Luc-Olivier Merson 1846-1920 -

 ノートルダム・ド・パリ(ノートルダムの鐘)は、19世紀のフランスロマン主義の小説家ヴィクトル・ユゴーの物語です。
 舞台は15世紀のパリ。ノートルダム大聖堂の前に醜い赤ん坊が捨てられており、助祭長であるフロロが育てます。赤ん坊はカジモドと名付けられ、ノートルダムの鐘付きとして成長しました。ある日、パリにジプシーが現れ、フロロはその中の美少女エスメラルダを愛してしまいます。信仰と愛の板挟みになったフロロは、遂にカジモドを利用して彼女を誘拐しようとしました。

 計略は失敗し、カジモドは捕らえられて彼女は衛兵フェビュスと付き合うようになります。捕まったカジモドは街でさらし者になっていましたが、エスメラルダだけは彼を庇った為、恋心を抱くようになりました。フロロはエスメラルダを諦めきれず、二人が逢引きしている場へ行き、フェビュスを刺して逃げます。彼女はフェビュスを重体にした濡れ衣を着せられ、魔女裁判により死刑が下されました。

 カジモドはエスメラルダを救出してノートルダム大聖堂にかくまいましたが、フロロは暴動を誘導して混乱を引き起こして彼女を誘拐。自分の愛人となるか、死刑となるかを選択させます。エスメラルダは後者を選び、衛兵に引き渡されて処刑されてしまいました。その光景をノートルダムの塔から笑いながら見ていたフロロを、怒ったカジモドは突き落として殺してしまいます。
 その数年後、処刑場の後から白骨死体が出てきて、その横には異様な骨格をした白骨が寄りそっていました。それらを離そうとすると、粉々に砕けてしまったそうです。
 登場人物がほぼ全滅。悲劇の物語であるノートルダムの鐘の絵画13点をご覧ください。

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仮面舞踏会の絵画13点。イタリア ルネサンスより流行った、素性を隠す妖しき祭典

Angelo Caroselli - Masquerade -

 仮面舞踏会(マスカレード)は15世紀のイタリアより始まった、仮面を被って素性を隠し参加するダンスパーティーのことです。
 イタリアのヴェネツィアでは、仮面を被って踊る「ヴェネツィア・カーニバル」が1162年頃に興りました。また、中世後期の宮廷内では、特別な機会の時に派手な衣装を着て行進したり、仮装して余興したりする「仮装舞踏会(モリスコ)」が流行っていました。これらのイベントが混ざり合い、仮面を被りながら踊る公的な式典である「仮面舞踏会」は誕生したのです。
 仮面舞踏会は17、18世紀に西洋全土に広がり、上流階級の間で大人気のイベントとなりました。仮面をした者たちは素性が分からないよう工夫を施し、踊ったり話したりしながら誰かを当てるという余興を行っていました。目元だけではなく顔を覆うタイプのものや、装飾をしたものなど様々なデザインの仮面が生まれたのです。仮面舞踏会は人気すぎてトラブルも多く、決闘での死者や暗殺なども起きており、風紀を乱すイベントとして禁止令を出した国王もいたほどでした。仮面舞踏会の文化は現在でも受け継がれており、妖しくも華やかなダンスパーティが密やかに行われているのです。
 仮面舞踏会に関する絵画13点をご覧ください。

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ジル・ド・レの作品12点。ジャンヌを支援したが、欲望の為に少年達を虐殺した軍人

Éloi Firmin Féron 1835 -

 ジル・ド・レ(1405-40)は百年戦争時代に生きた軍人貴族です。
 フランスのブルターニュ地方生まれ。彼が11歳の時に両親が死去してしまい、祖父に育てられます。祖父ジャン・ド・クランは目的の為なら手段を選ばない人であり、彼はその背を見て学んでいきました。祖父は彼を政略結婚に利用し、領主の娘カトリーヌを誘拐して強引に二人を結ばせました。祖父のコネにより軍人となると、ジル・ド・レはシャルル七世の側近に重宝されて軍を扱える立場となりました。1429年のオルレアンの戦いにおいて、ジャンヌ・ダルクに協力して一躍英雄となりますが、彼女がイングランドに捕らえられて処刑されてしまい、ジル・ド・レは領地にこもってしまいます。

 派手好きだった彼は美術品を買い漁ったり、連日豪華な宴を催したりしました。莫大にあった富は尽き始め、自称錬金術師のフランソワ・プレラーティらの影響もあり、錬金術や黒魔術に耽溺してしまいます。正義感がある一方、私利私欲の為なら何事も辞さない側面があるジル・ド・レは、黒魔術の利用の為に町の少年たちを拉致するようになります。悪魔への生贄の為に少年の心臓を捧げていたのですが、じきに辱めと殺人の快楽に目覚めてしまい、多くの少年らは残虐な欲望の為に殺されたのでした。

 近隣ではジル・ド・レが犯人だという噂が流れていましたが、百年戦争の功労者であり名門の出である彼を逮捕するのは、難しい問題でした。しかし、1440年にジル・ド・レは聖職者を捕らえる為にミサ中の教会に軍で押し入り、大罪を犯します。それを口実に大司教は「悪魔崇拝、少年惨殺、掟破りの罪」で告発し、彼は逮捕されます。裁判で恐ろしい行為が次々と暴露され、城からおびただしい少年の死体が出て来ました。犠牲者の数は300~1500名にも上ると伝えられています。同年10月、彼は絞首刑にされました。彼の遺体の周りには人だかりができ、魂が救済されるよう祈りが捧げられていたそうです。
 ジル・ド・レの作品と、青ひげに関する作品12点をご覧ください。

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狂えるオルランドの絵画14点。十二勇士(パラディン)をモデルにしたイタリア叙事詩

angelika-and-medor  Orlando Furioso  Ludovico Ariosto -
 

 「狂えるオルランド」は、ルドヴィーコ・アリオスト作によって1516年に発行された、フランスを舞台にしたイタリアの叙事詩です。内容はマッテーオ・マリーア・ボイアルド作の未完の叙事詩、「恋するオルランド」の続編、「ローランの歌」の前日談という形式をとっており、シャルルマーニュと十二人の勇士(パラディン)の活躍、オルランドの失恋と発狂、イタリアの有力貴族であるエステ家の起源が書かれています。
 ある日、王主催の馬上試合にアンジェリカという美人の姫がやって来て、パラディンの一人オルランド(フランス読みでローラン)は恋煩いをしてしまいます。彼女を求めて世界中を旅し、再三の帰還命令も無視して歩き回るオルランド。しかし、恋は実らずに彼は発狂してしまうのでした。

 一方、フランスの女騎士ブラダマンテはイスラムの戦士ルッジェーロと恋に落ちます。敵同士であった二人は周囲の激しい反対に合いますが、困難にめげずに愛を貫き、結ばれます。こうして二人の子孫がエステ家となったのでした。また、他にも支流の物語がたくさんあり、その中にはオルランドの理性を求めて王子が月へ行った話、ルッジェーロがアンジェリカを救う話、中国やタタール人の王との戦いの話などが散りばめられております。めちゃくちゃ長い話で、登場人物も多いので、これらのことだけで全貌を知ることはできませんが、物語を知る一存になれば幸いです。
 では、狂えるオルランドに関する絵画14点をご覧ください。

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ローランの歌の挿絵13点。騎士ローランの武勲を称える、フランスの英雄叙事詩

Batalla_Roncesvalles -

 「ローランの歌」はシャルルマーニュの甥ローランを称える、11世紀に成立したフランスの英雄叙事詩です。
 シャルルマーニュには優れた12名の勇士(パラディン)がおり、その中の一人がローランでした。サラセン帝国の支配下にあるイベリア半島を奪い返そうと、彼等はスペインで戦闘していました。戦いは優勢となり、サラセン側の王は停戦交渉を持ち掛け、もしシャルルマーニュがフランク王国へ帰るなら、自分はキリスト教へ改宗して人質をも差し出そう、と言いました。条件を呑もうか考える王に、ローランは「止めよう。罠だ」と、ガヌロンは「受け入れよう」と進言しました。
 結局シャルルマーニュは条件を呑むことにして、使者を誰にしようか悩みます。そこで、ローランは「ガヌロンを推薦する」と言って、それが採用されました。しかし使者の役目は危険がつきもの。ガヌロンは「自分を殺して、領地を乗っ取るつもりか?」と疑心暗鬼に駆られ、ローランへの復讐を目論んでしまいました。

 使者としてサラセン側へ行ったガヌロンは、退却しようとしたシャルルマーニュの軍を背後から襲撃し、ローランを殺害しようと王たちと計画を立てました。フランク王国へ帰ることを決めたシャルルマーニュは、「最後尾を誰にしよう」と言うと、自軍へと戻ったガヌロンはローランを推薦します。殿軍を務めることになったローランの元に、サラセンの大軍が押し寄せてきます。敵の余りの多さに軍は総崩れとなり、ローランはやっとのことで援軍を呼ぼうと角笛を吹きました。裏切りに気付いたシャルルマーニュらは直ぐに戦闘に加わり、更に援軍を寄こします。その間にローランは獅子奮迅の戦いを見せていましたが、親友は命を落とし、遂に彼も力尽きてしまいます。戦争には勝利したものの、英雄は戦場でその命を散らしてしまったのでした。
 中世と近代の二種類から、ローランの歌の作品13点をご覧ください。

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オーギュスト・ルノワールのマイナー絵画15点。こんな作品も描いた印象派の巨匠

Pierre-Auguste_Renoir Diana als Jägerin 1867 -

 ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)はフランスの印象派の画家です。
 彼はリモージュという町に生まれ、3歳の時にパリに移りました。十代の時に磁器の絵付きや扇子の装飾などの仕事を行い、20歳の時に画家になろうと決意。アカデミズム絵画を手掛けるシャルル・グレールの塾に入り、そこでモネやバジールらと出会い、23歳の時にサロンで初入選を果たします。普仏戦争の後にモネやピサロと共に「第一回印象派展」を行いますが、結果は厳しい批判を受けました。二回、三回の印象派展は芳しくはなかったものの、徐々にファンが現れるようになります。37歳の時に再びサロンに応募したところ入選し、印象派展からは距離を置くようになります。
 
 その二年後にアルジェリアとイタリアを旅行し、古典的な作品に感銘を受けたルノワールは、明確な線を描くようになります。ですが、自らの画風は違うと思った彼はまた温かみのある風合いの裸体画を描き、その頃にはルノワールの名声は高まっていました。しかし、56歳の時に自転車事故でリウマチを発症、以後は病気と闘いながらの作品制作となります。晩年は南フランスに移り住み、家族や風景、裸婦などをモチーフにして数々の作品を生み出しました。名声は西洋中に広がり、マティスやピカソなど若き画家が自宅訪問したと伝えられています。その頃彫刻にも興味を抱き、彫刻デッサンを手掛けるようになります。4000点以上作品があるとされる多産の画家ルノワールは、1919年12月に肺の血液が異常に増える肺うっ血という病により亡くなりました。享年78年でした。

 ルノワールの作品は光に満ちた風景画や人物画、水浴画が多いですが、趣向を変えて神話や物語に関連した、ちょっとマイナーな作品をご紹介したいと思います。あくまでも主観的なものなので、「これメジャーじゃん!」と思ってもお許しください。
 では、ルノワールのマイナーな作品15点+αをご覧ください。

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近代絵画の父ポール・セザンヌのダークな作品16点。感覚の実現を追究した画家

Paul Cézanne - Young Man With a Skull -

 ポール・セザンヌ(1839-1906)はフランス出身のポスト印象派の画家です。
 ロマン主義的な作風を手掛けた後、印象派グループに在籍しておりましたが、独自の画風を確立してピカソやマティス、ブラックなどの現代画家に強い影響を与えました。その為「近代絵画の父」と称されています。セザンヌといえば机と果物が描かれた静物画や風景画、水浴画などがよく知られていますが、油絵約900点、水彩画約350点、デッサン約350点のとても多くの作品を残しています。

 彼は1860~70年代を中心して、暴力や死、女性の神秘や美、誘惑をテーマにして描きました。実際のモデルを用いず、想像だけで描く「構想画」を使ってロマン主義的な絵画を描き、内面の感情を強調しようとしたのです。その後、モネやルノワールが属する印象派と出会って風景画や水浴画、人物画を手掛けるようになりますが、印象派の者達が光の表現や時間の色合いの推移を表現しようとしたのに対し、セザンヌは「感覚の実現」にこだわりました。対象をそのまま模写せず、自らの感覚を通して世界を構築しようとしたのです。印象派から離れた後は静物画と人物画に精を出すようになりました。また、晩年にはヴァニタスを主題とした頭蓋骨が置かれた絵画も制作しております。
 今回は初期の頃のロマン主義的なテーマの作品と、晩年のヴァニタス画を紹介していきいたいと思います。ダーク系の絵画ばかりで見るポール・セザンヌの絵画16点をご覧ください。

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プロフィール
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管理人:


中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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