メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

ルネサンス

西洋画家10人の本名はこちら!エル・グレコやボッティチェリ、ボスはあだ名だった

Parmigianino_Selfportrait 1523-24 -

 現代における芸能人や画家、エンターテイナーは芸名や通名を用い、本名を名乗らない者がおります。それは歴史上の画家も同様で、私達が現在普通に呼んでいる名が、実はあだ名という画家もいるのです。通名で呼ばれている画家はルネサンス時代が多く、その名の意味も、呼ばれるようになった経緯も実に様々です。
 では、フラ・アンジェリコやボッティチェリ、エル・グレコやヒエロニムス・ボスなどの10名の画家達の本名と、あだ名の由来を見ていきたいと思います!

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消失した絵画13点。火事や地震、戦争や盗難により永遠に見られない幻の絵画

Raphael Sanzio  Raffaello 1483 - 1520 Portrait of a Young -

 現在、全国各地に美術館があり、沢山の絵画を鑑賞することができます。
 しかし、人間の長い歴史から生まれ出た作品から考えると、それらはほんの一部であり、火事や地震、戦争やテロ、盗難などで数多くの絵画が永遠に失われてきました。天災は避けようがないですし、宗教争いの人為的な破壊が今でも行われ続けています。また、美術品の盗難による被害額は、麻薬・武器輸出についで第三位だそうです。盗難された作品が見られるデータベースには約45000件もの登録がしてあるそうです。(2014年末の数字なので、もっと増えているかもしれません) 恐ろしい数字ですよね・・・。
 画家が丹精込めて、人生をかけて描いた作品が、思想に合わないからというだけで燃やされ、金になるからという理由で盗まれて売られるのです。本当にあってはならない事だと思います。池上英洋著『「失われた名画」の展覧会』と、サイモン・フープト著『「盗まれた世界の名画」美術館』の二冊の本を参考文献にして、永遠に失われた名画13点をお届けします。

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西洋美術のアートTシャツを販売しています!ここだけのダークな絵画Tシャツたち

Tシャツ表紙

 絵画がプリントされたTシャツは美術館やネットで手に入れる事ができますが、デザインも限られており、なかなか自分好みの絵画が見つからない!という人もいるのではないでしょうか。
 そんな方の為に、「メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-」は西洋美術のアートTシャツの販売を始めました!これは鉄板というメジャーな絵画から、ここだけしか扱っていない珍しい絵画もございます。「メメント・モリ」という名にふさわしいよう、ダークな絵画も沢山取り扱っています。むしろダークな絵画の方が多いと思います。
 では、概要をご覧ください^^

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聖ヒエロニムスの絵画16点。聖書をラテン語に翻訳し、ライオンを助けた過激な聖人

Matthias Stom  17th -

 聖ヒエロニムス(347年頃―420年)は聖職者と神学者であり、聖書をラテン語に翻訳しました。本名はエウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス。
 彼は現在クロアチアになっている地帯ダルマティアに生まれました。始めはキリスト教に興味がなく、古典を熱心に勉強して各地を転々としていましたが、20代後半頃に重病を患ってしまいます。これを期に神学に身を捧げることを決心し、シリアの砂漠で隠遁生活を送りました。聖職者となった彼はローマで教皇ダマスス1世の庇護を受けます。当時、聖書にはラテン語訳のものはあっても断片的なもので、皆が理解できる完全版というものはありませんでした。故にダマスス一世の命でヒエロニムスはラテン語の聖書を作ろうと、多様な聖書を使って翻訳作業を行いました。
 教皇が崩御すると、彼はエルサレム、エジプト、ベツヘレムなどへ赴き、405年頃にラテン語版聖書を完成させます。この聖書はすぐに西洋周辺で用いられるようになり、校訂を繰り返しながらも現代に至るまでラテン語聖書の決定版としての地位を保ち続けているのです。
 バイリンガルの知識人であり、過激な性格であった聖ヒエロニムスの絵画、16点をご覧ください。

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スザンナと長老らの絵画13点。ダニエル書にある好色爺さんと節操ある女性の物語

Hendrick Goltzius  1558–1617 -

 スザンナと長老の物語は、旧約聖書のダニエル書に入っている短編の一つです。
 ある日、ヘブライ人の美しい女性スザンナは人払いをして庭で水浴していました。しかし、二人の好色な長老がそれをのぞき見していたのです。そればかりではなく、スザンナが帰宅しようとした時に眼前に立ちはだかり、「我等と関係を持たなければ、恋人と密会していたと夫に告発するぞ!」と脅迫しました。彼女はそれに屈することなく拒否したので、虚偽の罪で逮捕されてしまいます。まさに死刑にされようとしていた時、ダニエルという青年が異議を唱えます。彼は長老らにスザンナと男が密会した詳細を訪ねると、二人の話は一致しませんでした。逢引きした木が、一人は乳香樹、一人はカシの木と主張したのです。これにより嘘がばれ、長老らが処刑されることになりました。
 好色と偽りが罰せられ、美徳が勝利するというこの物語は1500年以降多くの画家に描かれてきました。スザンナと長老たちの絵画13点をご覧ください。


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「レオナルド・ダ・ヴィンチとアンギアーリの戦い」の展覧会が日本を巡回中!

レオナルド

 現在、レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンンギアーリの戦い」展が広島県で開催されております!
 この展覧会は2015年の東京展から始まり、三年の時をかけて8県を巡る予定であるようです。既に4県は終了してしまい、残りが4県となっております。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品が見られる貴重な展覧会となるので、非常に気になるところ。
 さっそく詳細を見ていきましょう!

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聖母マリアの死の絵画12点。キリストの母は永遠の眠りについて天国へ昇っていく

The Death of the Virgin 1472–80 -

 キリスト正教会によると、マリアは晩年をエルサレムで過ごしたとされています。彼女は己の死が近いことを悟って近辺の整理をし、その訪れを待ちました。すると、ばらばらに旅をしていた12使徒全員が家を訪ね、悲しんで口々に別れを惜しみました。マリアは最期に使徒達に会えたことに安心して平穏の眠りにつき、墓の中に入ります。三日後に使徒たちが墓を訪れてみると、マリアの身体はそこにはなく、昇天したということが分かりました。
 伝説では以上のような内容なのですが、聖母マリアの消息はキリストの磔刑以降分かっておりません。享年も50~70歳とまちまちとなっており不明です。マリアの死は「眠りにつく」と表現され、英語では「The Falling Asleep of the Virgin」などとも言われます。三日後の復活の後、天へと召されていくマリアの場面を「聖母の被昇天」と呼び、天国にいるキリストと神によって冠を受けている場面を「聖母戴冠」と呼びます。
 今回は眠りにつくマリアの絵画12点をご覧下さい。

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ギリシャ神話の英雄アキレスの絵画12点。ケイロンに師事した彼は戦争へ連れられる

education centaur Chiron 1782 Jean Baptiste Regnault -

 アキレスはギリシャ神話に登場する英雄です。
 王ぺーレウスと海の女神テティスとの間に生まれました。アキレスが生まれると、テティスは直ぐ冥府の川スクテュスに息子を浸しました。その川には人を不死にする力がありましたが、テティスはアキレスの足首を掴んでいた為、かかとだけ不死にはなりませんでした。その後、彼はケンタウロス族の賢者ケイロンの元に預けられて養育されました。立派な青年になったアキレスでしたが、トロイ戦争に関わると命を落とすと予言が出たので、テティスは息子を女装させてスキュロス島へ移しました。そこで彼は王の娘デイダメイアとの間に息子ネオプトレモスをもうけています。

 そこへ戦争の勧誘にオデュッセウスが来たので、女装したアキレスはやり過ごそうとしました。しかし、策士の彼は女性向けの物の中に武器を混ぜ、正体を暴いてしまいました。こうしてアキレスは戦争に出ざるを得なかったのです。いざ出航しようとした彼等でしたが、トロイ方面とは逆の風が吹いており進めませんでした。総大将アガメムノンが神託をすると、娘を生贄へ捧げるという結果が出ました。アガメムノンはアキレスとの縁談を理由に娘を呼び寄せ、生贄にしてしまいます。アキレスはその事に非常に強い怒りを示し、亀裂を生じさせるきっかけとなりました。
 その後、彼はトロイ戦争へ参加して予言通りに命を落としてしまうのですが、今回はアキレスの幼少期とアガメムノンの確執についての絵画12点をご覧ください。

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ルクレツィア・ボルジアとその家族の絵画12点。政略結婚を繰り返した疑惑の美女

Lucrezia Borgia, by Bartolomeo Veneto -

 ルクレツィア・ボルジア(1480‐1519)はイタリアのボルジア家に生まれた、波乱に満ちた人生を送った女性です。
 父はロドリゴ(後の教皇アレクサンデル6世)、母はその愛人。兄弟にはホアン、チェーザレ、ホフレがいます。彼女が12歳の時、ロドリゴは財力の力で教皇となりましたが、彼はルネサンス期の政治腐敗の象徴となっているほど堕落していました。彼女が13歳の時ジョヴァンニ・スフォルツァと政略結婚し、同盟の不仲により離婚。その間にルクレツィアは従者と関係を持ち、子供が生まれる前に従者は死亡。子供の出生証明は兄と父の二通り作成されましたが、結果は不明。次にアルフォンソ・ド・アラゴンと結婚しますが、二年で夫が暗殺されてしまいます。その後、家族内で騒動があり、長男ホアンが川で遺体になって発見されます。
 ルクレツィアはまたしても政略結婚をさせられます。今度はエスト家のアルフォンソ一世・デステの元へ。彼は暗殺されるのを恐れてルクレツィアを生家から遠ざけました。そうしている内に父ロドリゴは病気になり他界。兄チェーザレも病にかかり、戦死してしまいます。ボルジア家から解放されたルクレツィアは寄付や美術の保護に着手し、人々から篤い支持を得ていました。スキャンダルな話は事欠きませんでしたが、彼女は夫の信頼も得ていました。しかし1519年、出産の合併症により死去。享年39歳でした。
 欲望と策略渦巻くボルジア家に生まれたルクレツィアと、その家族の絵画12点をご覧下さい。

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「この人を見よ(エッケ・ホモ)」の絵画15選。ピラトに示されたキリストは民衆に晒される

Guercino - Ecco Homo  1647 -

 「エッケ・ホモ」はラテン語で「この人を見よ」という意味であり、ローマ帝国の総督ピラトが発した言葉です。
 キリストは有罪となって磔刑を宣告され、鞭を打たれて茨冠を被せられました。そしてうるさく騒ぎ立てる民衆の前に引き出されました。その時にピラトは民衆に向かって「エッケ・ホモ」と言ったのです。この言葉は劇的で、重要なシーンであった為、「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)」と共に多くの絵画が生まれました。
 始まりは9~10世紀頃のビザンティン美術とされ、通常はエルサレムの街を背景に、キリストとピラト、侮蔑する民衆が描かれます。15世紀以降になると肖像画としてのエッケ・ホモも描かれるようになり、フランドル地方で特に人気となりました。茨冠や縛られた縄、十字架などが添えられた肖像画としてのエッケ・ホモは様々なバリエーションがあり、「受難」という宗教的イメージを強めていきました。
 「この人を見よ」という主題の絵画15点をご覧ください。



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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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