メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

ローマ時代

キュベレーの絵画13点。フリギアやギリシャローマで崇拝された、古き豊穣の地母神

Francois-Edouard PICOT Cybele Vesuvius Protect  Cities 1832 -

 キュベレーはフリギア(トルコ中部)で崇拝され、ギリシャローマにも信仰が広まった豊穣を司る地母神です。その信仰は古く、起源は新石器時代までさかのぼるとされています。
 キュベレー崇拝は男性の去勢に深く結びついています。両性とも考えられていたキュベレーは、ある日去勢されてそこから樹木が生じ、その実に触れた女性が男の子を産み落とします。アッティスと名付けられた息子は王女と婚約しますが、恋したキュベレーがアッティスを忘我状態にさせて彼を去勢させてしまいます。なんと、その光景を見た王様が自らに同様の処置をした為に、キュベレーの熱狂的な崇拝者と男性の去勢が関連付けられるようになったとされています。なんというか、恐ろしいですね^^;

 また、キュベレーは二頭の獅子(ライオン)を引き連れているとされており、それはアタランテとヒッポメネスの夫婦の物語が関係しています。ヒッポメネスは徒競走に勝利してアタランテを妻とする事に成功しますが、キュベレーの神殿で情事をしてしまった為に、女神は怒って二人を獅子に変えてしまったそうです。(男女の愛は怒るんですね女神様・・・)
 では、古代の地母神キュベレーについての絵画13点をご覧ください。一部閲覧注意の作品がありますので、ご了承ください。

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ソフォニスバの絵画12点。夫マシニッサの境遇により毒盃で果てたカルタゴの美女

ferrari luca 1650 -

 ソフォニスバ(紀元前203年頃)は、第二次ポエニ戦争時代に生きた、カルタゴの美女です。
 カルタゴの将軍ハスドルバル・ギスコの娘として生まれた彼女は、東ヌミディア王国の王子マシニッサと婚約していましたが、東ヌミディアは共和政ローマとの戦争で大敗して王を失ってしまい、西ヌミディア王国が吸収してしまいます。それにより、ソフォニスバは西ヌミディアの王シュファクスと結婚しました。ヌミディアとカルタゴは同盟国となり、ローマ軍に対抗しますが、ローマ司令官の大スキピオとの戦争により破れてシュファクスは捕虜となってしまいます。彼は紀元前203年頃にローマで殺されてしまいました。

 一方、東ヌミディアの王子マシニッサはローマの傘下へと入り、大スキピオを援助しました。その功績により、マシニッサはヌミディア王へと選出されます。その時、マシニッサはかつての許嫁ソフォニスバを見つけ、妻とする事にしたのです。
 しかし、カルタゴ将軍の娘であるソフォニスバにとって、ローマは敵国でした。ローマ側としても同様で、大スキピオはソフォニスバとの結婚を容認せず、彼女をローマへと連行する事に決めました。ソフォニスバは捕虜の扱いとなる事を恥辱とし、毒盃を飲み干して自ら命を絶ったのでした。
  このローマ時代の物語は日本ではマイナーですが、多くの絵画が描かれています。では、毒盃を飲んで自死しようとしているソフォニスバの絵画12点をご覧ください。

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女傑ゼノビアの絵画13点。勇敢なるパルミラ女王と野心的な夫に尽くした二人の女性

Zenobia by Carlo Antonio Tavella -

 ゼノビアという勇敢なる女性が、伝説上に二人存在します。
 一人目は、3世紀にシリアやエジプト周辺に興ったパルミラ王国の女王であるゼノビア。
 ゼノビアはパルミラ一帯を治めていたオダエナトゥスの後妻として入り、夫の参謀役として働きました。しかし、夫が267年に甥に暗殺されてしまったので、息子ウァバッラトゥスを後継者として立て、彼女は息子と二人で共同統治者となりました。268年になるとローマ皇帝ガッリエヌスが暗殺され、ゼノビアと息子はそれに乗じて領土を広げていき、ゼノビアは「戦士女王」と呼ばれるまでになりました。
 270年にローマ皇帝となったアウレリアヌスがパルミラ王国に降伏を迫り、彼女はそれを拒否。全面対決となります。それにより息子ウァバッラトゥスは戦死して大敗し、王国は滅亡してしまうのでした。ゼノビアはローマへと連行され、そのまま病気で死亡したとも、自死したとも、ローマの元老院と再婚して余生を暮らしたともされています。

 もう一人は51~5年に興ったイベリア王国の王子ラダミストゥスの妻としてのゼノビア。
 夫は野心家で、ゼノビアの父を処刑してアルメニアを征服してしまいます。ローマとパルティアの攻撃にあって一度はアルメニアを奪われるも、ラダミストゥスは復権します。しかし、彼がパルティア国に組した都市を罰した為、都市はパルティア王子をアルメニア王として立て、彼は地位を追われてしまいます。ラダミストゥスは身重であるゼノビアを連れて馬で逃げました。
 タキトゥスの伝説によると、ゼノビアはその時こう言ったとされています。「身重で乗馬に長時間耐えられない。足手まといになって敵の手に落ちるくらいなら、どうか私を殺してください」と。夫はその願いを聞いてやり、海岸で彼女を刺して一人旅立ちますが、ゼノビアは奇跡的に命を取り留め、羊飼い達に発見されます。彼女はそのままパルティア王の元へ連れられたものの、手厚くもてなされたそうです。一方、自国に逃走した夫は父に対して陰謀を企て、処刑されてしまったとされています。
 二人のゼノビアに関する絵画13点をご覧ください。

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聖フロリアンの絵画13点。火炙りされて川に沈められた、消防を司る軍司令官の聖人

Saint Florian by Francesco del Cossa, 1473 - コピー

 聖フロリアン(聖フロリアヌス)はローマ帝国時代の聖人です。
 現在のドイツ・バイエルン地方の軍司令官であった彼は、消防団も率いていました。帝国側はキリスト教の崇拝を辞めさせる為にアキリヌスを送り出しました。アキリアヌスはローマの神々の信仰を強要しますが、フロリアンは断固拒否。怒った帝国側はフロリアンを棍棒で殴り、釘で打ちつけて火で炙って拷問しました。そして首に大石をくくり付け、ドナウ川に沈めてしまったのでした。
 フロリアンはそれにちなんで消防関係者の守護聖人とされ、フロリアン十字は消防団の紋章として広く使用されています。
 では、聖フロリアンの絵画13点をご覧ください。

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スフィンクスの絵画13点。エジプトやギリシャ神話等に登場する神秘の女形の怪物

Oedipus and the Sphinx 1864 -

 スフィンクスはエジプト神話、メソポタミア神話、ギリシャ神話に登場する神獣、または伝説の怪物です。獅子の姿に女性の顔、鷲の翼が一般的です。
 スフィンクスの起源は古代エジプトの最古期とされ、王や神を守護する神聖な存在であり、エジプト王ファラオの容姿、ライオンの身体をしています。最も有名なものはギザの三大ピラミッドの近くにある、大スフィンクスですね。男性、女性の両方おり、守護する王の聖獣をかたどる為、鳥類や雄羊の頭部を持ったスフィンクスもいるようです。
 メソポタミアのスフィンクスは女性の顔、獅子の身体、鷲の翼を持っており、戦争において死を見守る、死の使者的な恐ろしい存在として考えられております。

 また、ギリシャ神話におけるスフィンクスもメソポタミアと同様の姿をしているとされています。テュポンを父親、エキドナを母親とし(オルトロスとエキドナという説も)、高い知能を生かして人間に謎解きをけしかけ、不正解の者を喰らう事を繰り返していました。
 オイディプス王の物語によれば、スフィンクスはテーバイの人々に「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か?」という問いを発して、住民を苦しめていました。オイディプスは「答えは人間だ。赤ん坊の時はハイハイをし、青年になって立ち上がり、老人となると杖を付くからだ」と正解を言った為、スフィンクスは悔しさのあまり岩から海へ飛び込んで命を落としたとされています。
 様々な国、時代のスフィンクスの姿についての作品13点をご覧ください。

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アレキサンドリアの聖カタリナの絵画14点。車輪の拷問器具を壊した知的な聖女

Bartolomeo Cavarozzi Santa Catalina de Alejandría -

 アレクサンドリアの聖カタリナ(287-305年)は「十四救難聖人」に数えられる聖女です。シエナの聖カタリナという同名の聖女がいる為、アレクサンドリアと出身地を前に付けて区別しています。
 アルメニア王の娘として生まれた彼女は最高の教育を受け、知・美・血・富・心の全てにおいて自分に勝る男としか結婚しないと宣言していました。この頃、アドリアヌスという隠者が聖母マリアの導きを得てカタリナの元へ現れ、宗教の教えを説いてキリスト達の所へ連れて行きました。洗礼を受けたカタリナは完璧な存在であるキリストと会い、指輪を授けられて婚約したとされています。このシーンは「神秘の結婚」として、多くの絵画が残されています。

 しばらくして、アレクサンドリアにローマ皇帝マクセンティウスが訪問してきました。皇帝はキリスト教を迫害していた為、カタリナはその誤りを説こうとしました。彼女は皇帝が差し向けた50人の異教の賢者を論破し、彼等を改宗させてしまいます。皇帝はカタリナを口説こうとして拒否された為に怒り、彼女を牢屋へ入れて12日間放置します。牢屋に入れられている間、彼女は王妃や高官、兵士200名などにキリストの教えを説き、改宗させました。食べ物はキリストの使いである白鳩が運んで来たそうです。

 まさかの事態に皇帝は更に怒り、刃付きの車輪という拷問器具を使ってカタリナを痛めつけようとしました。しかし、彼女が祈ると車輪はバラバラに壊れてしまったのです。改宗した王妃や高官たちが皇帝に抗議した為、皇帝は彼等をも処刑してしまいました。「異教になるなら助けてやる」と言う皇帝に、カタリナは頑なに拒否を示し、遂に斬首されてしまったのでした。彼女の首からは血ではなくミルクが流れ出たとされています。
 では、アレクサンドリアの聖カタリナについての絵画14点をご覧ください。

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セネカの絵画14点。ネロ帝に命じられ自害した、偉大なるローマの哲学者&政治家

1615 - Peter Paul Rubens -

 セネカ (紀元前1世紀頃-65年) はローマ帝国時代の哲学者、政治家、作家です。
 裕福な地主の次男としてコルドバで生まれたセネカは、10代前半の頃にローマへ移り、教養や雄弁術、哲学などを学びました。しかし、20代の時に大病を患い、療養を兼ねてエジプトのアレクサンドリアへと遠征します。そこでも多くの事を学んだセネカは、十年後にローマへと戻って財務官職を経験した後、元老院議員として選出されます。

 カリグラ帝、クラウディウス帝の治世共に命の危機を乗り越え、セネカはクラウディウスの後妻となったアグリッピナの後ろ盾を得て法務官へと任命されます。アグリッピナは陰謀によって息子ネロを皇帝に仕立てあげ、その家庭教師にセネカを付け、執政官としての役割もセネカに与えました。セネカや外の人々のサポートもあり、ネロは五年の間善政を築きます。しかし、愛人問題により親子関係に深い確執が生じ、アグリッピナはネロの奸計によって殺されてしまいます。次第に暴君として振舞うようになったネロに対してサポートをしきれなくなり、セネカは政界の引退を申し出たのでした。

 家にこもったセネカは幾つかの作品を執筆し、そのまま余生を過ごすつもりでいました。しかし、引退の三年後、彼に悲劇が起こります。ネロを退位させようという陰謀が露見し、その中の一人が「セネカも加担していた」と自白したのです。ネロは自宅に役人を派遣し尋問しましたが、セネカの対応が曖昧だったので自害を命じました。セネカは始めドクニンジンを飲んで中毒死しようとしましたが、死に切れず、風呂場で静脈を切って命を絶ったとされています。セネカが実際に陰謀に加担していたかどうかは、未だに分かっておりません。
 では、波乱の時代に生きた哲学者セネカの絵画14点をご覧ください。

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ネロ帝の絵画14点。母と師を殺めキリスト教徒を迫害した、暴君とされるローマ皇帝

Emperor Nero  by Abraham Janssens 1618 -

 ネロ(37-68年)はローマ帝国の第五代皇帝で、暴君として知名度が高い人物です。
 母はアグリッピナで父はグナエウス。アグリッピナは夫の死と現皇帝カリグラの死により、新しく皇帝となった叔父のクラウディウスと結婚する事になりました。彼女の陰謀によってネロは後継者の第一候補となり、毒キノコ中毒でクラウディウスが急死すると、ネロは弱冠18歳で王位を手に入れる事になりました。その死はアグリッピナが関与しているという説が有力のようです。

 皇帝となったネロは家庭教師である哲学者セネカや、近衛長官のセクストゥスの意見を訊き、始めこそは善政を行っていました。しかし、母との確執や愛人問題によって狂っていってしまうのです。ネロは妻オクタウィアそっちのけで解放奴隷の娘を愛人としていたので、アグリッピナはそれを咎めます。口うるさい母を疎ましく思い始めていたネロは、母を宮殿から追放したあげく、二番目の愛人にまたも口出ししてきた母を殺害してしまいます。

 セネカや外の指南役も引退してしまい、指導する者がいなくなったネロは暴走し、オクタウィアを殺して後妻を娶り、多くの議員と共にセネカを殺し、ローマの大火をきっかけとしてキリスト教徒を迫害します。しかし、民衆の支持率が低下したネロは、68年に元老院に「国家の敵」とみなされてしまいます。ローマ郊外の解放奴隷の家へと逃げたネロは騎馬兵がやって来る音に恐れ、奴隷に命じて自分の喉を切らせて自害したとされています。母や妻や反ネロ派を次々と殺し、残虐な暴君とされたネロでしたが、彼の死に悲しむ者は多く、沢山の花や供物が墓へ供えられたそうです。
 では、皇帝ネロの絵画14点をご覧ください。

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ヘロデ王の一族の絵画13点。キリストやヨハネ、パウロに関わる残虐なユダヤの王

Théophile Lybaert  1883 -

 ヘロデ大王(紀元前73年頃-紀元前4年)はローマ時代にユダヤ地区を統治した王です。
 ハスモン朝の王子の側近にアンティパトロスという武将がおり、ヘロデの父親でした。彼はローマの権力者ユリウス・カエサルの信用を得て、カエサルの死後は元老院派に歩みより、ヘロデをガリラヤ地方の知事にさせます。その後ハスモン朝のヒカルノス二世の甥が反逆し、親ローマ派であったヘロデの身にも危機が及びます。ローマへと逃亡したヘロデは元老院からローマの軍勢を貸し与えられ、エルサレムにて反逆者を討伐しました。手柄を得たヘロデはユダヤの分封王となり、ヘロデ朝が成立したのです。
 王位についたヘロデはオクタヴィアヌス派に付き、生き残っていたハスモン朝の血縁者を抹殺しようとします。また、自らに楯突いた者はレビ族の祭司であろうと迷わず処刑し、独裁政治を貫きました。新約聖書においては救世主の到来を恐れてベツレヘムの二歳以下の新生児を虐殺したとされています。しかし、ヘロデ王はローマに準じた大建築物を幾つも建造し、人気を高めました。王の死後は息子三名が分割してユダヤ地区を収め、ガリラヤ地方の領主となったヘロデ・アンティパスがイエス・キリストや洗礼者ヨハネとに関わっていくのです。
 ヘロデ王とその後継者たちの絵画13点をご覧ください。
 
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聖ヒエロニムスの絵画16点。聖書をラテン語に翻訳し、ライオンを助けた過激な聖人

Matthias Stom  17th -

 聖ヒエロニムス(347年頃―420年)は聖職者と神学者であり、聖書をラテン語に翻訳しました。本名はエウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス。
 彼は現在クロアチアになっている地帯ダルマティアに生まれました。始めはキリスト教に興味がなく、古典を熱心に勉強して各地を転々としていましたが、20代後半頃に重病を患ってしまいます。これを期に神学に身を捧げることを決心し、シリアの砂漠で隠遁生活を送りました。聖職者となった彼はローマで教皇ダマスス1世の庇護を受けます。当時、聖書にはラテン語訳のものはあっても断片的なもので、皆が理解できる完全版というものはありませんでした。故にダマスス一世の命でヒエロニムスはラテン語の聖書を作ろうと、多様な聖書を使って翻訳作業を行いました。
 教皇が崩御すると、彼はエルサレム、エジプト、ベツヘレムなどへ赴き、405年頃にラテン語版聖書を完成させます。この聖書はすぐに西洋周辺で用いられるようになり、校訂を繰り返しながらも現代に至るまでラテン語聖書の決定版としての地位を保ち続けているのです。
 バイリンガルの知識人であり、過激な性格であった聖ヒエロニムスの絵画、16点をご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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