メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

ローマ時代

スフィンクスの絵画13点。エジプトやギリシャ神話等に登場する神秘の女形の怪物

Oedipus and the Sphinx 1864 -

 スフィンクスはエジプト神話、メソポタミア神話、ギリシャ神話に登場する神獣、または伝説の怪物です。獅子の姿に女性の顔、鷲の翼が一般的です。
 スフィンクスの起源は古代エジプトの最古期とされ、王や神を守護する神聖な存在であり、エジプト王ファラオの容姿、ライオンの身体をしています。最も有名なものはギザの三大ピラミッドの近くにある、大スフィンクスですね。男性、女性の両方おり、守護する王の聖獣をかたどる為、鳥類や雄羊の頭部を持ったスフィンクスもいるようです。
 メソポタミアのスフィンクスは女性の顔、獅子の身体、鷲の翼を持っており、戦争において死を見守る、死の使者的な恐ろしい存在として考えられております。

 また、ギリシャ神話におけるスフィンクスもメソポタミアと同様の姿をしているとされています。テュポンを父親、エキドナを母親とし(オルトロスとエキドナという説も)、高い知能を生かして人間に謎解きをけしかけ、不正解の者を喰らう事を繰り返していました。
 オイディプス王の物語によれば、スフィンクスはテーバイの人々に「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か?」という問いを発して、住民を苦しめていました。オイディプスは「答えは人間だ。赤ん坊の時はハイハイをし、青年になって立ち上がり、老人となると杖を付くからだ」と正解を言った為、スフィンクスは悔しさのあまり岩から海へ飛び込んで命を落としたとされています。
 様々な国、時代のスフィンクスの姿についての作品13点をご覧ください。

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アレキサンドリアの聖カタリナの絵画14点。車輪の拷問器具を壊した知的な聖女

Bartolomeo Cavarozzi Santa Catalina de Alejandría -

 アレクサンドリアの聖カタリナ(287-305年)は「十四救難聖人」に数えられる聖女です。シエナの聖カタリナという同名の聖女がいる為、アレクサンドリアと出身地を前に付けて区別しています。
 アルメニア王の娘として生まれた彼女は最高の教育を受け、知・美・血・富・心の全てにおいて自分に勝る男としか結婚しないと宣言していました。この頃、アドリアヌスという隠者が聖母マリアの導きを得てカタリナの元へ現れ、宗教の教えを説いてキリスト達の所へ連れて行きました。洗礼を受けたカタリナは完璧な存在であるキリストと会い、指輪を授けられて婚約したとされています。このシーンは「神秘の結婚」として、多くの絵画が残されています。

 しばらくして、アレクサンドリアにローマ皇帝マクセンティウスが訪問してきました。皇帝はキリスト教を迫害していた為、カタリナはその誤りを説こうとしました。彼女は皇帝が差し向けた50人の異教の賢者を論破し、彼等を改宗させてしまいます。皇帝はカタリナを口説こうとして拒否された為に怒り、彼女を牢屋へ入れて12日間放置します。牢屋に入れられている間、彼女は王妃や高官、兵士200名などにキリストの教えを説き、改宗させました。食べ物はキリストの使いである白鳩が運んで来たそうです。

 まさかの事態に皇帝は更に怒り、刃付きの車輪という拷問器具を使ってカタリナを痛めつけようとしました。しかし、彼女が祈ると車輪はバラバラに壊れてしまったのです。改宗した王妃や高官たちが皇帝に抗議した為、皇帝は彼等をも処刑してしまいました。「異教になるなら助けてやる」と言う皇帝に、カタリナは頑なに拒否を示し、遂に斬首されてしまったのでした。彼女の首からは血ではなくミルクが流れ出たとされています。
 では、アレクサンドリアの聖カタリナについての絵画14点をご覧ください。

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セネカの絵画14点。ネロ帝に命じられ自害した、偉大なるローマの哲学者&政治家

1615 - Peter Paul Rubens -

 セネカ (紀元前1世紀頃-65年) はローマ帝国時代の哲学者、政治家、作家です。
 裕福な地主の次男としてコルドバで生まれたセネカは、10代前半の頃にローマへ移り、教養や雄弁術、哲学などを学びました。しかし、20代の時に大病を患い、療養を兼ねてエジプトのアレクサンドリアへと遠征します。そこでも多くの事を学んだセネカは、十年後にローマへと戻って財務官職を経験した後、元老院議員として選出されます。

 カリグラ帝、クラウディウス帝の治世共に命の危機を乗り越え、セネカはクラウディウスの後妻となったアグリッピナの後ろ盾を得て法務官へと任命されます。アグリッピナは陰謀によって息子ネロを皇帝に仕立てあげ、その家庭教師にセネカを付け、執政官としての役割もセネカに与えました。セネカや外の人々のサポートもあり、ネロは五年の間善政を築きます。しかし、愛人問題により親子関係に深い確執が生じ、アグリッピナはネロの奸計によって殺されてしまいます。次第に暴君として振舞うようになったネロに対してサポートをしきれなくなり、セネカは政界の引退を申し出たのでした。

 家にこもったセネカは幾つかの作品を執筆し、そのまま余生を過ごすつもりでいました。しかし、引退の三年後、彼に悲劇が起こります。ネロを退位させようという陰謀が露見し、その中の一人が「セネカも加担していた」と自白したのです。ネロは自宅に役人を派遣し尋問しましたが、セネカの対応が曖昧だったので自害を命じました。セネカは始めドクニンジンを飲んで中毒死しようとしましたが、死に切れず、風呂場で静脈を切って命を絶ったとされています。セネカが実際に陰謀に加担していたかどうかは、未だに分かっておりません。
 では、波乱の時代に生きた哲学者セネカの絵画14点をご覧ください。

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ネロ帝の絵画14点。母と師を殺めキリスト教徒を迫害した、暴君とされるローマ皇帝

Emperor Nero  by Abraham Janssens 1618 -

 ネロ(37-68年)はローマ帝国の第五代皇帝で、暴君として知名度が高い人物です。
 母はアグリッピナで父はグナエウス。アグリッピナは夫の死と現皇帝カリグラの死により、新しく皇帝となった叔父のクラウディウスと結婚する事になりました。彼女の陰謀によってネロは後継者の第一候補となり、毒キノコ中毒でクラウディウスが急死すると、ネロは弱冠18歳で王位を手に入れる事になりました。その死はアグリッピナが関与しているという説が有力のようです。

 皇帝となったネロは家庭教師である哲学者セネカや、近衛長官のセクストゥスの意見を訊き、始めこそは善政を行っていました。しかし、母との確執や愛人問題によって狂っていってしまうのです。ネロは妻オクタウィアそっちのけで解放奴隷の娘を愛人としていたので、アグリッピナはそれを咎めます。口うるさい母を疎ましく思い始めていたネロは、母を宮殿から追放したあげく、二番目の愛人にまたも口出ししてきた母を殺害してしまいます。

 セネカや外の指南役も引退してしまい、指導する者がいなくなったネロは暴走し、オクタウィアを殺して後妻を娶り、多くの議員と共にセネカを殺し、ローマの大火をきっかけとしてキリスト教徒を迫害します。しかし、民衆の支持率が低下したネロは、68年に元老院に「国家の敵」とみなされてしまいます。ローマ郊外の解放奴隷の家へと逃げたネロは騎馬兵がやって来る音に恐れ、奴隷に命じて自分の喉を切らせて自害したとされています。母や妻や反ネロ派を次々と殺し、残虐な暴君とされたネロでしたが、彼の死に悲しむ者は多く、沢山の花や供物が墓へ供えられたそうです。
 では、皇帝ネロの絵画14点をご覧ください。

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ヘロデ王の一族の絵画13点。キリストやヨハネ、パウロに関わる残虐なユダヤの王

Théophile Lybaert  1883 -

 ヘロデ大王(紀元前73年頃-紀元前4年)はローマ時代にユダヤ地区を統治した王です。
 ハスモン朝の王子の側近にアンティパトロスという武将がおり、ヘロデの父親でした。彼はローマの権力者ユリウス・カエサルの信用を得て、カエサルの死後は元老院派に歩みより、ヘロデをガリラヤ地方の知事にさせます。その後ハスモン朝のヒカルノス二世の甥が反逆し、親ローマ派であったヘロデの身にも危機が及びます。ローマへと逃亡したヘロデは元老院からローマの軍勢を貸し与えられ、エルサレムにて反逆者を討伐しました。手柄を得たヘロデはユダヤの分封王となり、ヘロデ朝が成立したのです。
 王位についたヘロデはオクタヴィアヌス派に付き、生き残っていたハスモン朝の血縁者を抹殺しようとします。また、自らに楯突いた者はレビ族の祭司であろうと迷わず処刑し、独裁政治を貫きました。新約聖書においては救世主の到来を恐れてベツレヘムの二歳以下の新生児を虐殺したとされています。しかし、ヘロデ王はローマに準じた大建築物を幾つも建造し、人気を高めました。王の死後は息子三名が分割してユダヤ地区を収め、ガリラヤ地方の領主となったヘロデ・アンティパスがイエス・キリストや洗礼者ヨハネとに関わっていくのです。
 ヘロデ王とその後継者たちの絵画13点をご覧ください。
 
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聖ヒエロニムスの絵画16点。聖書をラテン語に翻訳し、ライオンを助けた過激な聖人

Matthias Stom  17th -

 聖ヒエロニムス(347年頃―420年)は聖職者と神学者であり、聖書をラテン語に翻訳しました。本名はエウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス。
 彼は現在クロアチアになっている地帯ダルマティアに生まれました。始めはキリスト教に興味がなく、古典を熱心に勉強して各地を転々としていましたが、20代後半頃に重病を患ってしまいます。これを期に神学に身を捧げることを決心し、シリアの砂漠で隠遁生活を送りました。聖職者となった彼はローマで教皇ダマスス1世の庇護を受けます。当時、聖書にはラテン語訳のものはあっても断片的なもので、皆が理解できる完全版というものはありませんでした。故にダマスス一世の命でヒエロニムスはラテン語の聖書を作ろうと、多様な聖書を使って翻訳作業を行いました。
 教皇が崩御すると、彼はエルサレム、エジプト、ベツヘレムなどへ赴き、405年頃にラテン語版聖書を完成させます。この聖書はすぐに西洋周辺で用いられるようになり、校訂を繰り返しながらも現代に至るまでラテン語聖書の決定版としての地位を保ち続けているのです。
 バイリンガルの知識人であり、過激な性格であった聖ヒエロニムスの絵画、16点をご覧ください。

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ローマの慈愛キモンとペロの絵画15点。獄中で瀕死の父に、娘が母乳を与える物語

Peter Paul Rubens 1612 -

 「ローマの慈愛(Roman Charity)」と呼ばれているこの物語は、父親に対する娘の献身的な愛を象徴しています。
 時代は古代ローマまでさかのぼり、歴史家ワレリウス・マキシムスが書いた「忘れざる行為の9冊の書とローマ人の言葉」に記録されています。餓死の刑に処されている父親キモンは食糧を与えられず、死の寸前にありました。そこへ居場所を探し出した娘ペロが現れ、死にかけている父に自らの母乳を与えます。彼女の行為は看守によって発見されてしまいますが、この献身的な行為は看守の心を動かし、父親の解放を得ることができたとされています。
 この物語はローマ時代から何名もの画家に描かれ、17~18世紀頃に最も多く描かれました。キモンとペロの絵画、15点をご覧ください。

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ユリウス・カエサル (シーザー)の絵画13点。ローマ皇帝の礎を作り暗殺された支配者

Peter Paul Rubens, Julius Caesar, 1619 -

 ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は共和政ローマの時代の政治家、軍人です。紀元前100年―紀元前44年に生き、おそらくローマ時代の中で五本の指に入る有名人でしょう。
 名門の貴族の家に生まれたカエサルはガイウス・マリウスの甥にあたり、民衆派を支持していました。当時、民衆派と閥族派の二つがいがみ合っており、後者の代表スッラによって処刑されそうになりましたが、カエサルは小アジアに逃亡して難を逃れています。その後、スッラが死去したので彼はローマに帰り、持ち前の弁舌で政治界をのし上がり、ポンペイウス、クラッススの有力者と共に第一回三頭政治を行いました。その二年後、カエサルはガリア周辺の総督となり、数度の遠征を経てガリア全土を征服し、ローマの属州としました。

 しかし、紀元前53年にクラッススが戦死したことにより三頭政治は崩壊、ポンペイウスと不仲になって内戦が起こってしまいます。勝利したカエサルは独裁権力を手に入れ、逃亡した彼を追ってエジプトへ入り、その時に王女クレオパトラと知り合い、二人は恋愛関係となります。カエサルは小アジア、アフリカなどを渡ってローマに戻り、独裁政治を行います。しかし、元老院の崩壊を危惧した共和主義の者達により、カエサルは暗殺されてしまいます。その中には、非常に寵愛していたブルートゥスが混じっており「ブルートゥス、お前もか…!」という名言を残し、カエサルは息を引き取りました。
 共和政ローマの崩壊のきっかけを作った、ユリウス・カエサルの絵画13点をご覧下さい。

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クレオパトラの死の絵画14選。絶望した女王は自らの身体を毒蛇に噛ませ、命を絶つ

Benedetto Genari Cleopatra -

 クレオパトラは紀元前に生きた、プトレマイオス朝の最後の王女です。
 彼女は18歳で王位に付き、他の兄弟と政権争いをしながら国を動かしていきます。ポンペイウス(子)やユリウス・カエサル、アントニウスらと関係を持ち、カエサルとの間に息子カエサリオン、アントニウスとの間に双子の男女と男子の三人の子供を生みました。しかし、ローマで台頭してきたオクタヴィアヌスとの海戦に敗れ、クレオパトラの立場は危機的状況に陥ってしまいます。愛人アントニウスの死を受けて、彼女も命を絶つことを決心し、自らの身体に毒蛇を噛ませ、息絶えてしまいます。まだ39歳でした。
 美女の代表格となっている王女の死は、多くの画家が取り上げました。毒蛇に噛まれて命を絶とうとしているクレオパトラの絵画、14点をご覧ください。
→ クレオパトラについて、もう少し詳しく知りたい方はこちら

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女王クレオパトラの絵画13点。知性と色香で国を動かした、絶世の美しさを誇る悪女

Jacob Jordaens  1653 -

 クレオパトラ(紀元前69‐30年)は古代エジプトに栄えたプトレマイオス朝の最後の女王です。
 本名はクレオパトラ7世フィロパトル。絶世の美女とされ、話術が得意で何か国語も話すことができたそう。彼女が生きたプトレマイオス朝は激動と混乱の時代でした。若干18歳でクレオパトラは弟のプトレマイオス13世と兄弟婚をし、共同政策を行いました。しかし、二人の間に亀裂が走り、内戦が勃発します。ローマとの同盟こそが重要であると考えたクレオパトラは、ユリウス・カエサルに目を付けます。女王は自らを寝具袋(絨毯とも)にくるませ、アレクサンドリアにいたカエサルの元に届けさせました。彼女はカエサルを魅了し、ナイルの戦いでプトレマイオス13世を戦死させます。クレオパトラは国の統治を図りますが、今度はカエサルが暗殺されてしまいます。

 その後、ローマはカエサル派である三名が権力を持ち、三頭政治を行っていました。その一人であるアントニウスに呼び出された時、彼女は美しく着飾ってお色気攻撃を図りました。彼はそれに引っかかり、二人は愛人となって三人の子をもうけます。アントニウスはクレオパトラに深入りしずぎた為、ローマ市民に不興を買ってしまい、オクタヴィアヌスに人気が集まるようになりました。クレオパトラ側はとオクタヴィアヌスと海戦を行いましたが、あえなく敗北。アントニウスは自害し、クレオパトラも毒蛇に自らの身体を噛ませて自害をしたと伝えられています。こうしてプトレマイオス朝は滅亡してしまいました。
 世界三大美女とされ、悪女ファム・ファタールともされている女王クレオパトラの絵画13点をご覧ください。

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プロフィール
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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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