メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ダークサイドの西洋美術にまつわる絵画や展覧会、グッズ情報をご紹介。

暗殺

暗殺の天使シャルロット・コルデーの絵画12点。フランスの革命者マラーを殺した女性

Charles Louis Müller (1815-1892) -

 シャルロット・コルデー(1768-93)は、ジャコバン派の指導者の一人マラーを暗殺した女性です。
 フランスのノルマンディーに住む貧乏貴族の元に産まれた彼女は、劇作家ピエール・コルネイユの子孫でした。13歳の時に母が亡くなり、修道院へ入りました。読書好きで物静かな少女で、祖先のコルネイユの作品やプルタルコスの作品を愛読していました。革命の煽りにより修道院は閉鎖され、カーン市に住む叔母の元に身を寄せます。国内が荒れていく中、コルデーは革命推進派であるジャコバン派を憎悪し、保守派であるジロンド派を支持するようになりました。争いに敗れてカーンへやって来たジロンド派の議員と会話をして、彼女はジャン・ポール・マラーを殺害しようと思い立ちます。
 1793年、彼女は単身パリへ赴き、マラーの自宅を訪ねます。彼は人民に対して入室を許可していました。皮膚病の為に浴槽に入っていたマラーに、コルデーはカーンで計画されている陰謀のメモを渡します。その時、彼女は隠し持っていたナイフで勢いよく胸を刺したのです!マラーは絶命し、彼女はその日のうちに逮捕され、革命裁判で死刑判決を受けて4日後にギロチンで処刑されてしまいました。誕生日の10日前、享年24歳でした。
 その美貌から「暗殺の天使」とも称された、シャルロット・コルデーの絵画12点をご覧ください。

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マラーの死の絵画13点。恐怖政治を強いたフランス革命指導者は、女に暗殺される

 The Death of Marat -

 ジャン・ポール・マラー(1743-93)は、フランス革命におけるジャコバン派の指導者の一人です。
 マラーはスイスの家庭に生まれ、ヨーロッパ各地で勉学に励んだ後、ロンドンで医者になりました。30代の頃にフランスに呼ばれ、6年間王の弟であるアルトワ伯(シャルル10世)のもとで働きます。彼はその頃から社会体制に不満を抱いており、変革運動を始めていました。1789年に起こったバスティーユ牢獄をきっかけとし、フランス革命が本格的に勃発します。マラーは政府に過激な攻撃を繰り返し、一時はイギリスに亡命するも、数か月後に戻ってテュイルリー王宮の襲撃や、反革命派の虐殺に関わりました。1792年にジャコバン派に所属し、ロベスピエール、ダントンらと指揮を執りました。反対勢力であるジロンド派を攻撃し、勢力を増大させ、1793年1月の議決によってルイ16世とマリー・アントワネットは処刑されてしまいます。その後、国内は大いに荒れ、ジャコバン派は恐怖政治を行い始めます。

 マラーはその時患っていた皮膚病が悪化し、自宅で浴槽に浸かりながら職務を行っていました。万人の面会を許していたマラーの元に、シャルロット・コルデーという女性が訪れます。彼女は陰謀についての話を巧みにして、隠し持っていたナイフで胸を刺してマラーを暗殺してしまいます。コルデーはジロンド派の支持者でした。7月に起こったこの事件は大センセーションを巻き起こし、数々の絵画が描かれました。マラーの死の作品は格好のプロパガンダとなり、ジャコバン派は盛り上がりを見せようとしますが、恐怖政治を糾弾され、同月に指導者ロベスピエールも処刑されてしまいました。
 マラーの死についての絵画13点+αをご覧ください。

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ユリウス・カエサル (シーザー)の絵画13点。ローマ皇帝の礎を作り暗殺された支配者

Peter Paul Rubens, Julius Caesar, 1619 -

 ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は共和政ローマの時代の政治家、軍人です。紀元前100年―紀元前44年に生き、おそらくローマ時代の中で五本の指に入る有名人でしょう。
 名門の貴族の家に生まれたカエサルはガイウス・マリウスの甥にあたり、民衆派を支持していました。当時、民衆派と閥族派の二つがいがみ合っており、後者の代表スッラによって処刑されそうになりましたが、カエサルは小アジアに逃亡して難を逃れています。その後、スッラが死去したので彼はローマに帰り、持ち前の弁舌で政治界をのし上がり、ポンペイウス、クラッススの有力者と共に第一回三頭政治を行いました。その二年後、カエサルはガリア周辺の総督となり、数度の遠征を経てガリア全土を征服し、ローマの属州としました。

 しかし、紀元前53年にクラッススが戦死したことにより三頭政治は崩壊、ポンペイウスと不仲になって内戦が起こってしまいます。勝利したカエサルは独裁権力を手に入れ、逃亡した彼を追ってエジプトへ入り、その時に王女クレオパトラと知り合い、二人は恋愛関係となります。カエサルは小アジア、アフリカなどを渡ってローマに戻り、独裁政治を行います。しかし、元老院の崩壊を危惧した共和主義の者達により、カエサルは暗殺されてしまいます。その中には、非常に寵愛していたブルートゥスが混じっており「ブルートゥス、お前もか…!」という名言を残し、カエサルは息を引き取りました。
 共和政ローマの崩壊のきっかけを作った、ユリウス・カエサルの絵画13点をご覧下さい。

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ロレンツィーノ (ロレンザッチョ)の絵画12点。メディチ家の彼は君主を夜に暗殺する

Assassination of Alessandro de’ Medici -

 ロレンツィーノ・デ・メディチ(1514年3月23日‐1548年2月26日)はイタリアルネサンス時代の政治家、著述家です。
 悪事を何度も重ねていた為、ロレンザッチョとも呼ばれていました。彼はフィレンツェの君主アレッサンドロ・デ・メディチを暗殺したことで有名です。フィレンツェで生まれたロレンツィーノは、コジモとアレッサンドロと共に、カメリーノで教育を受けました。紆余曲折があり、彼はアレッサンドロの腹心の部下になります。君主アレッサンドロは敬愛していた父親、クレメンス7世が崩御すると次第に暴君となっていき、ロレンツィーノと共に乱痴気騒ぎを繰り返し、市民の評判は地に落ちていました。ロレンツィーノの暗殺の動機は詳しく分かっていませんが、名誉を得る為だとされています。アレッサンドロと様々な悪事を働いたのはわざとで、彼の人気を地に落とす為とも考えられています。

 ロレンツィーノは妹をダシに使ってアレッサンドロを部屋に呼び、雇った男と一緒にナイフを使って彼を暗殺しました。その後、各地を転々として逃げ、自分の行為を正当化する文章を発表しましたが、フィレンツェ君主を継いだコジモ一世がロレンツィーノを死罪とすることを発表。ヴェネツィア大使が雇った暗殺者二人によって、母の兄弟であるソデリーニと共に道を歩いていたところ、ロレンツィーノは刺殺されてしまいます。彼を庇おうとした叔父も刺され、数日後に命を落とします。
 ロレンツィーノとアレッサンドロの肖像と、暗殺の絵画12点をご覧ください。

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中世ルネサンスのシュールな絵画をこよなく愛する。
師匠はヒエロニムス・ボス。
神秘とダークな作品情報を皆様と共有していきたいと思います。

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