ヴァイキングの絵画11点。卓越した航海技術と、死を恐れぬ勇気を持つ荒くれ者達 | メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ヴァイキングの絵画11点。卓越した航海技術と、死を恐れぬ勇気を持つ荒くれ者達

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Peter Nicolai Arbo Stamford Bridge, 1066

 ヴァイキングは793年-1050年の間、約250年間に渡って西ヨーロッパを侵略した、北欧地域周辺の武装した船団のことを指します。
 彼等は高い航海技術を持ち、軍事力、工業力ともに西ヨーロッパより優れていました。この技術を駆使して、ヴァイキングは富を求め、または土地や名誉を求め、他国へ乗り出していきます。荒っぽい者たちは教会や村へ押し入って略奪し、火を放ちました。行く先々の戦争へ傭兵として参加し、武勲を立てる者もいました。貿易目的の者もいましたが、西ヨーロッパ諸国から見たらヴァイキングは恐ろしい、悪魔のような存在でした。
 絵画を観ながら、ヴァイキングについて学んでいきましょう。


 

「12世紀の挿絵」
文献に載っているヴァイキングによる最初の襲撃は、
イングランドの小島にあるリンディスファーンの修道院でした。
この挿絵のように、彼等は海を埋め尽くすかのような
大軍でやってきたのでしょうか。
vikings

「1390年の写本挿絵」
ヴァイキングがびっしりと船に乗っていて、
作者の彼等に対する恐怖がひしひしと感じられます。
船には種類にもよりますが、20名~40名が搭乗していたとか。
Manuscrits, NAL 1390

「ロバート・ギブ作  19世紀後半-20世紀前半」
ロングシップと言われるヴァイキングの船。
船首には威嚇と魔除けになる竜の首が取り付けられていました。
19世紀に副葬品が発掘され、この時期ヴァイキングに
関する絵画が多く描かれるようになりました。
gibb-viking-funeral

「トム・ラベル作  20世紀」
イングランドの教会を筆頭に、様々な場所で虐殺と略奪を行いました。
村の人々は常に脅威に怯えなければなりませんでした。
Tom Lovell

「Angus McBride 作  20世紀」
ケルト人が王にヴァイキングの首をさらしています。
イングランド人は土地を守ろうと、ヴァイキングは土地を侵略しようと
互いに戦いを続け、深い確執を生み出しました。
Angus McBride

「Evariste-Vital Luminais 作  1894年」
ヴァイキングは野蛮で卑劣で好戦的な、恐ろしい存在と考えられていました。
女性をさらい、奴隷として売る者もいたとされています。
 Evariste Vital Luminais

「1908年の本の挿絵」
何故かヴァイキング=角の兜というイメージが定着しておりますが、
角のついた兜はケルト人の一部の族長が被っていたようです。
出土される兜は頭がすっきりしたものばかりだとか。
ヴィンランドに上陸したレイフ・エリクソン 1908年

「クリスチャン・クローグ作  1893年」
992年、赤毛のエイリークの息子レイヴはアメリカ大陸を発見しました。
彼はその地をヴィンランドと名付けます。コロンブスが大陸を発見する
5世紀も前に、ヴァイキングが先に到達していたのです。
Christian Krohg

「ペーテル・ニコライ・アルボ作  19世紀」
1066年に起こったスタンフォード・ブリッジの戦いを描いた作品。
この戦いでヴァイキング側は破れ、イングランドから追放されました。
Peter Nicolai Arbo Stamford Bridge, 1066

「Marten Eskil Winge 作  1866年」
ヴァイキングの死。戦死は最も良い死に方とされ、戦死した者は
神々の宮殿ヴァルハラへ招かれると信じられていました。
ヴァイキングはオーディンやトール、フレイなどの神々を信仰し、
勝利や安全、豊穣を祈りました。しかし、後にキリスト教に呑み込まれていきます。
Swedish painter Mårten Eskil Winge 1866

「Frank Dicksee 作  1893年」
死者を副葬品と共に船に乗せ、火を放って海へ流すのがヴァイキングの葬儀。
石を舟形に積んで死者の周りに置いて埋めたり、
死者を乗せた船を土に埋めたりすることもしました。
the-funeral-of-a-viking-1893_Frank Dicksee
 
 ヴァイキングがキリスト教化され、他国へ植民されるにつれ、自由を求める精神は失われていきました。そして船出して海賊的行為をする者がほとんどいなくなり、ヴァイキングはノルマン人と歴史に表記されるようになります。

 ヴァイキングの風習や思想を並べると、戦で武勲を上げることが名誉だ、戦死が名誉だ、性に奔放だ、家族を殺されたら親友だろうが復讐しろ、動物の生贄を神殿に捧げるぜ、食糧が尽きたら村を略奪すればいい、族長が死んだら奴隷を一緒に埋葬するぜ、騙される方が悪いぜ!と言った感じで、野蛮で乱暴なイメージを持つのに充分に思われますが、決してそんなことはありません。
 真面目な人もいますし、堅気な人もいます。中には他国と友好的に貿易を行う人もいましたし、現地の女性と愛し合い、そこへ定住する人もいたそうです。交易を行う目的の者がほとんどで、略奪を行う者の方が少ないという説も出ています。

 また、アイスランドにはシングと言われる民会があります。首長や地区民が集まり、話し合って問題事を裁く、現代の裁判のようなことが行われていました。法もきちんと設定されており、他より一歩進んだ政治がされていたと言えそうです。



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