洗足式は最後の晩餐の際、イエス・キリストが弟子の足を洗ったという記述により生じた儀式です。地位や立場関係なく互いの身を清め、徳を高め合おうという意味が込められています。
新訳聖書によると、過ぎ越し祭が行われる木曜日、キリストと十二使徒達は食事を共にとりました。その時、弟子の間で「一番になるのは誰か」でもめ始めたのです。キリストはおもむろに立ち上がり、タオルを腰にはさんで洗面器と水を用意し、使徒達の後ろにまわって一人一人の足を洗い出したではありませんか。
使徒達は驚きの余り成すがままにされていましたが、ペトロは「私の足なんか洗ってはなりません!」と足を引っ込めました。すると「洗わしてくれなかったら私の友ではない」とキリストが断言したので、ペトロは「じゃあ足だけじゃなくて頭も手も洗ってください!」とお願いしました。キリストは「君たちは清いので足だけで構わない。皆ではないが・・・」と意味ありげな事を発し、こう彼等に警句しました。「君たちは私を先生と呼んでいる。私が足を洗ったのだから、君たちも互いに仕え合わなければならない。私がしたようにしなさい」と。
では、弟子たちの足をふきふき洗うキリストの絵画13点をご覧ください。
「ロシアのプスコフ工房のイコン 16世紀」
ペトロと思われる人物の足をタオルでふきふきしているキリスト。
彼は「頭も洗って!」とお願いしているようです。「足を洗わなきゃ
友じゃない」と言われて「もっと洗って!」と言うペトロがなんだか
可愛らしく感じてしまいますね^^
「ジョット・ディ・ボンドーネ作 1303年」
こちらのペトロさんはまだ不安げな面持ちです。左の靴紐を結んで
いる人物はユダ。このテーマにおいて靴をいじっている人がいたら
ユダであるそうです。「足を洗うだけでは清くならない人物」は
彼の事なのでした・・・。
「ギリシャのボイオーティアのオシオス・ルカス修道院の天井画 11世紀」
お茶目なポーズで「頭も洗って」とお願いするペトロさん。
すぐ右側ではユダが靴をいじっていますね。・・・と思ったら、左の
人も靴をいじっています。ど、どどっちだ?
「作者不詳 15世紀頃(?)」
キリストはエプロンまでつけて、足を洗う気満々です。
これは後光がないから、左の黄色の衣服がユダかな?
靴紐、後光、衣服などで見分ける手段がありますが、一概には
言えないのでなかなか難しいのです・・・。
「作者不詳 ドイツの木版画 15世紀」
等身のバランスが小人さんみたいでなんだか可愛らしいです。
この作品も「頭も洗って欲しい」シーンですね。このユダも後光が
ないようです。
「ジャコポ・ティントレット作 1548-9年」
エプロンを付けてペトロの足をせっせと洗うキリストよりも、
見にくいですが、左寄り中央でズボンを引っぱって脱がせている
人がかなり気になります。右の人もズボンをはいているよう
ですし、洗足してもらうのに気合が入っているようですね。
「パオロ・ヴェロネーゼ作 1580年」
キリストがペトロに美徳の教えを説いている最中だと言うのに、
この十二使徒達も結構フリーダムな事をしていますね。
右側の人とか話を聞いているのかしら・・・。
「ハウスブックのマスター作 1475年」
フランドルの作品の使徒達は皆真面目にキリストのお話を
聞いているようです。ユダはがっつりと後光が取り除かれています。
(それにしても最後の晩餐中に洗足があったという記述ですが、
晩餐の机を描く画家は少ないですね。別部屋という解釈なのかな?)
「Giovanni Agostino da Lodi 作 1500年頃」
結構恐ろしい表情で洗足を見守っている使徒達。あれ、13名いる
ように見えるけど・・・。気のせいかな。(ぶるぶる)
「シチリア出身の画家作 1700年前半」
手を組むペトロと、キリストの背後にはユダと使徒ヨハネ。
それにしてもヨハネは美青年で描かれる割合が多いように感じ
られます。「イエスの愛しておられた弟子」という記述と、
ダ・ヴィンチの最後の晩餐のヨハネの影響なのでしょうか。
「ピーテル・パウル・ルーベンス作 1577-1640年」
頭上に黒い布を配し、画面中央に視線を集める工夫を凝らして
いますね。エプロンをして二の腕が筋骨隆々なキリストに対し、
ペトロは謙遜しているようです。
「フォード・マドックス・ブラウン作 1821-93年」
エプロンを使って足をふきふきさせているペトロさんはまだ納得
できぬ様子で、キリストを見つめています。左の目付きが悪いユダ
よりも、右側の赤い服の人が・・・。居眠りしてない!?
「ディルク・ファン・バビューレン作 1616年」
ペトロの足をふきふきしているキリストの左側で、何やら使徒達が
揉めているようです。「私が使徒一番だ!」とまだ喧嘩しているのか、
「ユダ、お前は態度が悪すぎる!」とユダを責めているのか・・・?
この物語にちなみ、現在でもキリストの復活祭前の木曜日に「洗足式」は行われており、主の晩餐のミサの後に洗足式のくだりを語り、司祭自らが志願者12名の足を洗っているそうです。「立場関係なく互いを清め合い、愛す」というこの物語は、現代日本でも充分に配慮する必要のある内容ではないでしょうか。
もし家族や友人、恋人や知り合いの方と足湯(?)に行く予定があるのなら、相手の足を優しくふきふきしてあげるのはいかがですか^^
→ 最後の晩餐についての絵画を見たい方はこちら
→ ユダの接吻についての絵画を見たい方はこちら
【 コメント 】
>> 季節風様へ
こんばんは^^
聖人は殉教した道具がアトリビュートとなる場合が多いですからね…。
私達の視点だと「殉教した道具を持たされるなんて酷い」と感じてしまいがちですが、そちらの方が宗教を守る為に命を賭したという事が浮き彫りになり、聖人の誉れが強く訴えかけられるからではないでしょうか。
「全部洗って!」というペトロがいじらしいですよね^^
十二使徒の面々は間違いや苦難、迷いもあって親近感があり、日本の観音様のように神よりも祈りやすさ、お願いしやすさを感じます。
なので、唯一神であるキリスト教の中で、聖人信仰やマリア信仰が根付いたのではないかなと思います。
お手数おかけしてすみません。
多くの情報を有難うございました。
刃物や刑を連想するシンボルの聖人が多くて、受難な人生だったんだなと頭の下がる思いです。
足を洗う場面でイエスに甘えるようなペトロと、イエスを引き渡そうと考えているユダがとりわけ印象に残ります。
>> 季節風様へ
こんばんは^^
人数が多いから見分けるのは大変ですよね。
十二使徒+一名のシンボルをまとめてみました。
ペトロ…天国の鍵、鶏
アンデレ…X型十字架
ヤコブ…ホタテ貝
ヨハネ…杯、書物、釜
マタイ…財布、書物
トマス…大工定規、槍
ピリポ…十字架
バルトロマイ…皮剥ぎナイフ、自らの皮
シモン…のこぎり
小ヤコブ…棍棒
タダイ…槍
マティア…斧
イスカリオテのユダ…財布、金貨、悪魔、黄色の服など
これらがあればある程度推測ができますが、被っている持物もありますし、絵画によっては何も持っていない場合もあります。
近くに物がなければ、ノリで判断するしかないですね…^^;
扉園様がお書きになった記事を読ませていただき十二使徒の見分け方も分かってきました。
絵画の中のユダを見付けたい人は多いと思います。
キリストは十字架、または常に絵の中央か目立つ位置にいる痩せたイケメン。ペトロは年長者風で鶏か鍵ですか。ヨハネは美青年またはキリストに寄りかかっている。
他の十二使徒の見分け方ってあるのでしょうか。
>> オバタケイコ様へ
こんばんは^^
私も知識が全然追いついておらず、様々なところから情報をお借りして、ブログを書きながら勉強している状態です^^;
初期フランドルの作品は魅力的ですよね!
遠近感は不自然なのに、自然と整列感というか独特のまとまりがあり、色彩も美しいし、格式の硬さと等身のアンバランスが絶妙な雰囲気を生んでいる。
昔は「絵が上達したい」と思っていましたが、最近こういう絶妙な絵柄を描きたいなぁと思うようになりました^^
美術好きなくせに知識に乏しい私ですが、勉強になります。
絵的には『ハウスブックのマスター作』が愉快です。
こういう本人が意図しない構図の面白さやデッサンの不自然さ、
みんな大真面目な顔して身体は5頭身てところが、とっても面白くて好きです。(^-^)
>> びるね様へ
こんばんは^^
洗足してから洗足するなんて…。
なんだか矛盾しておられるような気がします^^;
キリストに倣いたいけど、神の僕である修道院長のお手を汚したくない。結果、そうなってしまったのですね。
キリストは「足を洗うように仕え合いなさい」という事を伝えたかったから、「汚れた足であるかないか」は問題ではない。だから「あらかじめ洗った足で儀式をしてもOK」いう認識なのでしょうか。
そうだとしても、キリストから見たら「それは違います」と悲しみそうですね…。
クリュニー系修道院でも「キリストに倣いて」修道院長が洗足を行っていました。
乞食12名を調達して、「失礼のないように」あらかじめ足を洗っておいてから修道院長の前に連れ出されたそうです。