アラクネはギリシャ神話に登場する機織りを自負していた女性です。
彼女は染織業を営んでいた娘で、非常に優れた織り手でした。みんなアラクネの仕事に惚れ惚れして「女神アテナの弟子のようだ」と褒め称えました。しかし、彼女はそれが気に入らず「私の方が腕が上だわ」と言ってのけてしまいます。それを聞いたアテナはその居丈高を注意する為に老婆に変身して、アラクネに「そんな事は言うな。女神様に謝れば許して下さる」と告げますが、彼女は聞き入れません。怒ったアテナは「なら、私と勝負しなさい」と変身を解きました。アラクネは驚きましたが、大言壮語を吐いた手前、女神と勝負をすることになりました。
二人はもの凄いスピードで機織りをしていき、二つの見事な織物が完成しました。アテナの作品はポセイドンとアテナの競争をテーマにしており、彼女自身の勝利の姿が織られていました。アラクネの作品はゼウスの不倫の数々をテーマにしており、神々の羞恥な姿が織られていました。アラクネの織物の出来栄えはそれは美しいものでしたが、その侮辱に堪忍袋の緒が切れたアテナは織物を滅茶苦茶に引き裂きました。そして、アラクネに罪と恥を吹き込み、その感情に耐えられなくなった彼女は首をくくって死んでしまいました。不憫に思ったアテナはアラクネを生き返し、神を侮蔑した教訓をいつまでも背負い続けるよう、蜘蛛の姿に変えてしまったのです。
女神の逆鱗に触れて蜘蛛になってしまった、アラクネの絵画12点をご覧ください。
「ネーデルラントの写本挿絵 15世紀」
「やい、そこの娘。女神様に対して大口を叩くんじゃないよ」と老婆が
アラクネをいさめますが、アラクネは「ふん、アテナよりも私の方が上手よ」
と一向に聞く耳を持ちません。背後には大きい蜘蛛が描かれおり、
これから起こることが示されています。
「Herman Posthumus 作 1542年」
「ならば小娘、私と勝負しなさい」と老婆はアテナへと変貌しました。
他の女性たちはおののいて女神に平伏しますが、アラクネは頭を
下げません。驚きはしても、撤回はしませんでした。
「クリスティーヌ・ド・ピザン作 1364‐1430年」
とってもほのぼのとした挿絵ですが、もう女の戦いは始まっています。
自尊心が強いアラクネは、女神に対して勝負をすることに決めました。
背後のテーブルには蜘蛛らしき姿がいますが、何故か掻き消えています。
「フランチェスコ・デル・コッサ作 1436‐78年」
人間VS女神の機織り競争の開幕です。
二人は物凄い速さと技術で機を織っていきます。
「ディエゴ・ベラスケス作 1599‐1660年」
ベラスケスのアテナは老婆の姿をしていますね。右側の白い服を
着た女性がアラクネです。また、背後にもアラクネとアテナが描かれ、
織物に登場人物を入れ込んでしまいました。織物のデザインは
ティツィアーノの「エウロペの略奪」の影響が見て取れます。
「ティントレット作 1519‐94年」
アラクネの織り方は実に見事で、それはアテナも認めざるを得ません
でした。しかし、女神も負けてはいません。二人は火花を散らしながら
機を織っていきます。そして、完成した作品は・・・。
「ルネ=アントワーヌ・ウアス作 1706年」
アテナは女神の勝利をテーマにしていましたが、アラクネは主神ゼウスの
スキャンダラス的なテーマばかりを選んで作品にしました。この侮辱に
怒ったアテナは織物をびりびりに引き裂きました。
「ピーテル・パウル・ルーベンス作 1577‐1640年」
ルーベンスもこのシーンを描いています。怒りが収まり切らないアテナは
アラクネに罪と恥の感情を与えます。それに耐えきれなかった彼女は
自ら命を落としてしまいます。
「Ovid’s Metamorphoses Florence の挿絵より 1832年」
息絶えてしまって少し可哀想に思えた女神は、彼女を生き返らせる
ことにしました。ですが、ただでは生き返らせません。
「ルカ・ジョルダーノ作 1695年」
「一生、いえ先祖代々その教訓を身に染みて感じるがいい」とアテナは
言い、彼女にトリカブトの汁を掛けます。すると、アラクネの姿は
みるみる内に縮み、手足が増え、蜘蛛の姿になってしまいました。
「パオロ・ヴェロネーゼ作 1528‐1588年」
蜘蛛になった彼女は美しい糸を紡ぎますが、人に厭われ、嫌われる
存在となってしまいました。アラクネは女神に楯突いたことで、一生
醜い姿で糸を紡ぎ続けることになったのです。
「ギュスターヴ・ドレ作 1832‐1883年」
ダンテ・アリギエーリの「神曲」において、アラクネは地獄で傲慢の罪の
罰を受けていることになっています。彼女の姿は半分人間、半分蜘蛛の
異形の姿で描かれています。
ギリシャ神話において、自分の力を過信し、神に挑んだり近付いた者はことごとく破滅に陥っています。アポロンと音楽勝負をしたマルシュアスは皮剥ぎとなり、父アポロンの二輪車に乗った息子パエトンは焼け死に、太陽に近付きすぎたイカロスは墜落死し、美を自慢したメデューサは怪物に変えられてしまいました。旧約聖書でも神に近付いたバベルの塔は言語をかき乱され、イスラエルの人は幾度となく神の罰を受けています。それらは神々は崇高な存在だから、決して驕ってはいけない。自尊心を持たず、謙遜に生きなさい。という強いメッセージが込められています。
確かに傲慢はいけないことですが、崇高なるものに挑戦する向上心はあってもいいのでは・・・と私は思ってしまいます。向上心がなくては、人間は成長できません。時には上の存在に楯突き、自分の意志を貫くことも必要のように思います。(それは非常に難しいことですが・・・) ベラスケスの作品は、芸術の神に対する挑戦が暗喩として込められているとされています。アテナよりもアラクネを肯定的に描いているように見えるのは、私だけではないはずです。イカロスも太陽に近付いた勇気ある若者として語られることもあります。
神に挑戦した愚者は、同時に勇者でもあるのではないでしょうか。
→ アポロンとマルシュアスの絵画を見たい方はこちら
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