
「キリストの嘲笑」は、民衆たちによって嘲笑されるキリストを描いた作品を指します。
裏切者ユダによってキリストは逮捕され、懐疑の目を向ける民衆たちの前に晒られてしまいます。大司祭に「お前が神の子ならば奇跡を起こしてみせよ」と言われ、「嘘なんだからそんな事はできないだろ!」と民衆にキリストは嘲笑され、その後、総督ピラトが有名な言葉「エッケ・ホモ(この人を見よ)」と言うのです。
悪意ある民衆に攻撃される救世主という、悲惨とも思える主題なのですが、北方ルネサンスやバロック時代に多くの絵画が残されています。鞭打ちや茨冠、拷問や嘲笑、エッケ・ホモという絵画テーマは類似しており、一つの絵画に幾つの主題が含まれている場合もあります。
では、キリストの嘲笑の絵画15点をご覧ください。酷い描写が含まれていますので、宗教的に抵抗のある方はご注意ください。
「ジョット・ディ・ボンドーネ作 1304-6年」
座るキリストによってたかって攻撃する民衆。ユダヤの族長と
総督ピラトと思われる人物が話し込んでいます。
→ ジョットの作品をもっと見たい方はこちら
「フラ・アンジェリコ作 1440-41年」
天使の画家と評されるアンジェリコ。信心深い彼は嘲笑されるキリストを
リアルとしてではなく、象徴的に表しました。このような表現はあまり
類を見ません。手前にみえるのは聖母マリアと聖ドミニクスです。
「Vincent Adriaenssen 作 1595 -1675年」
三人の男たちに暴言を吐かれ、攻撃されているキリスト。
しかし、その表情は余裕そうで、不敵な笑みを浮かべているようにも
見えます。常に神と共にあるキリストは、周囲を取り巻く民衆たちが
自ら地獄への道を突き進んでいることを分かっているのでしょうか。
「ハンス・ロッテンハンマー(父)作 1564-1625年」
キリストの嘲笑とエッケ・ホモが合わさった作品。手前には拷問具が
置かれ、異国風の男や意地悪そうな老人が嫌みを言っていそうです。
ピラトは鑑賞者に向かい「この状況をどう思う?」と問いかけているようです。
「ヘラルト・ファン・ホントホルストの工房作 17世紀頃」
貴族や平民、兵士、怪我人などあらゆる階級、職業の人々が
キリストを嘲笑しているようです。べろべろばーって、この時代の
西洋にもあったんですね・・・。
「ルーカス・クラナッハ(父)作 1472‐1553年」
どれだけ救世主を馬鹿にすれば気が済むんだ・・・。と我が目を疑う
程の嘲笑ぶり。濃ゆいおじさんたちが寄ってたかって攻撃を仕掛
けています。左下の男なんか水鉄砲を噴射しています。
き、キリストさん、、白目となっておられます・・・。
「Wolfgang Katzheimer (父)作 1450-1508年」
こちらもよってたかって嘲笑されてしまっているキリスト。
大人の男たちだけではなく、左下では少年と犬も参加しています。
「ファン・ヘームスケルク作 1545-55年」
右側の男が物凄いドヤ顔をしていますね・・・。
この取り巻きたちにキリストは「はぁー」と深いため息を付いていそうです。
「Gioacchino Assereto 作 1600-49年」
キリストを指さし、「神の子なんて嘘っぱちだろ!?」と言っているかの
ようです。外では総督ピラトらしき人物が、成す術もなくこの状況を
見つめています。
「ギュスターヴ・ドレ作 1832 – 83年」
ドレは挿絵画家のイメージが強いのですが、このような油彩画を
手掛けています。レンブラントを彷彿とさせるタッチですね。
三人の男たちは一見悪口を言っているようには見えないのですが、
褒めて、けなすといった感じなのでしょうか。
「ホセ・デ・リベーラ作 1591-1652年」
べろべろ~と舌を出している男性以外は凄くシリアスな表情を
しているので、舌の男性が凄く滑稽に見えます。作者はそれを
狙ったのでしょうか。キリストは鑑賞者に訴えかけています。
「作者不詳 17世紀」
うなだれるキリストに、中指を立てている(?)罰当たりな男性。
暗闇に紛れた人々はどこか不気味で、悪意が具現化して、
どろどろと辺りを覆っているようです。
「Gioacchino Assereto 1640年」
なんか痛そうな拷問具を持って、キリストをいたぶる人々。
背後の三名は、どこか悲し気な表情をしているように見えます・・・。
「マティアス・ストーム作 1640年」
キリストの嘲笑? なんだか人々が集まって、キリストを中心に
昔話を語っているように見えますが・・・。
他の過激な作品と異なり、どこか優し気な嘲笑ですね。
「Giulio Cesare Procaccini 作 1574–1625年」
嘲笑と言うか、さっきから暴力されまくりのキリスト。
なんかもう、これ以上虐めないで!と思ってしまいます。
人間は生まれつき原罪を背負っており、キリストはその罪を背負って磔刑に処された。というのがキリスト教の考えですが、ここまで人間を悪とし、信仰の対象者であるキリストを揶揄し、いたぶるのは凄いなぁ・・・と思ってしまいます。仏教でも様々な困難や試練があり、それを乗り越えることで初めて聖人たらしめるとされているので、そういった考えに結びつくのでしょうか。苦難があればあるほど聖性が増す。そんな感じなのですかね?
人それぞれなのでしょうが、これらを描いている画家の心境が知りたいです。「すみません」なのか、「信心が深まります」なのか「心を無にします」なのか・・・。
→ エッケ・ホモ(この人を見よ)についての絵画を見たい方はこちら
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