ジル・ド・レの作品12点。ジャンヌを支援したが、欲望の為に少年達を虐殺した軍人 | メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ジル・ド・レの作品12点。ジャンヌを支援したが、欲望の為に少年達を虐殺した軍人

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 ジル・ド・レ(1405-40)は百年戦争時代に生きた軍人貴族です。
 フランスのブルターニュ地方生まれ。彼が11歳の時に両親が死去してしまい、祖父に育てられます。祖父ジャン・ド・クランは目的の為なら手段を選ばない人であり、彼はその背を見て学んでいきました。祖父は彼を政略結婚に利用し、領主の娘カトリーヌを誘拐して強引に二人を結ばせました。祖父のコネにより軍人となると、ジル・ド・レはシャルル七世の側近に重宝されて軍を扱える立場となりました。1429年のオルレアンの戦いにおいて、ジャンヌ・ダルクに協力して一躍英雄となりますが、彼女がイングランドに捕らえられて処刑されてしまい、ジル・ド・レは領地にこもってしまいます。

 派手好きだった彼は美術品を買い漁ったり、連日豪華な宴を催したりしました。莫大にあった富は尽き始め、自称錬金術師のフランソワ・プレラーティらの影響もあり、錬金術や黒魔術に耽溺してしまいます。正義感がある一方、私利私欲の為なら何事も辞さない側面があるジル・ド・レは、黒魔術の利用の為に町の少年たちを拉致するようになります。悪魔への生贄の為に少年の心臓を捧げていたのですが、じきに辱めと殺人の快楽に目覚めてしまい、多くの少年らは残虐な欲望の為に殺されたのでした。

 近隣ではジル・ド・レが犯人だという噂が流れていましたが、百年戦争の功労者であり名門の出である彼を逮捕するのは、難しい問題でした。しかし、1440年にジル・ド・レは聖職者を捕らえる為にミサ中の教会に軍で押し入り、大罪を犯します。それを口実に大司教は「悪魔崇拝、少年惨殺、掟破りの罪」で告発し、彼は逮捕されます。裁判で恐ろしい行為が次々と暴露され、城からおびただしい少年の死体が出て来ました。犠牲者の数は300~1500名にも上ると伝えられています。同年10月、彼は絞首刑にされました。彼の遺体の周りには人だかりができ、魂が救済されるよう祈りが捧げられていたそうです。
 ジル・ド・レの作品と、青ひげに関する作品12点をご覧ください。

 

「エロワ・ファーミン・フェロン作   1835年」
ちょび髭を生やしたおかっぱ姿のジル・ド・レ。“レ”という部分は
領地の名前で、本名はジル・ド・モンモランシ=ラヴァル。
威風堂々としており、黒魔術に傾倒するような人物には感じません。
彼は敬虔な信徒であり、正義感も持ち合わせていました。

「作者不詳  挿絵」
しかし、彼は正と悪の二面性を抱いており、百年戦争でジャンヌ・ダルクが
処刑されてしまった事が、残忍な面を開花させる一因となったと
言われています。(諸説ありますが・・・)自分を裏切った神に報復をしたい、
どうにでもなれ!と言った心理だったのでしょうか。

「Louis Charles Bombled 作 フランスの本の挿絵 19世紀」
エセ錬金術師フランソワ・プレラーティらの邪悪な助言を受け、彼は
金を創り出す錬金術に凝り出し、次第に悪魔崇拝の黒魔術の領域にも
足を踏み入れるようになります。悪魔を召喚する生贄の為に、少年を
拉致するようになるのです。

「作者不詳  歴史書の挿絵  1879年」
女性の死体を処分するジル・ド・レとして紹介されていました。
十字軍のような服装をしている彼が、女性の遺体を井戸に投げ入れようと
しています。傍らには子供が・・・。このようなことも行っていたのでしょうか。

「Antoine Valentin Foulquier 作  1862年」
分厚い書籍を見ながら、何やら黒魔術を行っているようです。
横たわる青年は虫の息であり、足元には幼児の死体が転がっています。
後世の推測で描かれた挿絵で、誇張や色眼鏡が含まれている可能性が
ありますが、彼は実際に魔術の為に幾つもの命を捧げたのです。

「エミール・バヤール作  1870年」
傍らにいる角と翼の生えた悪魔が、窓の外の軍隊を示しています。
「これがお前の信頼した軍隊だ」なのか「これはお前を死刑にする軍だ」
かどちらなのでしょうか・・・。手には血の滴る少年の生首を持っています。

「作者不詳  1530年頃」
周囲はジル・ド・レの悪行を知っていたものの、戦争の功労者と
男爵という地位があり、なかなか逮捕に踏み切れませんでした。
しかし、領地争いによりミサに押し入って聖職者を監禁したことを口実に、
彼は遂に逮捕され、1440年9月15日に宗教裁判所に出頭します。

「作者不詳  19世紀の挿絵」
城を調査すると、異端の痕跡と遺体がごろごろ出て来ました。
ジル・ド・レは次第に快楽と殺人に溺れていき、ただ少年をいたぶって
殺すことを目的として、300名以上の命が犠牲となりました。
挿絵では樽の中から骸骨が大量に・・・。

「作者不詳  1530年頃」
裁判の際、ジル・ド・レは居丈高な態度を取った後に、涙を流して罪を
懺悔したそうです。約一か月後、彼は絞首刑となりました。
残虐な人殺しの人生を歩んだ彼でしたが、その死を悲しむ人々は
少なからずみえたそうです。

「ギュスターヴ・ドレ作  19世紀」
ペローの書いた童話「青ひげ」は、一説にジル・ド・レをモデルにした
とされています。青ひげは裕福な男性で、何度も結婚をしたものの、
妻は誰もが行方不明になっていました。新しい妻に青ひげは「この小さな
鍵の部屋だけは絶対に入ってはいけない」と言って外出します。

「ヘルマン・フォーゲル作  1854-1921年」
約束を破って新妻が鍵を使って小部屋へ入ると、そこにはかつての
妻達の死体がごろごろしていました。彼女は恐怖のあまり血の上に
鍵を落としてしまい、付いた血はどんなに洗っても取れませんでした。

「作者不詳   1923年頃」
秘密の小部屋に入ったことがばれた新妻は、青ひげに殺されそうに
なりますが、間一髪で兵士である兄二人によって助け出されました。
青ひげは倒され、新妻はその財産を全て受け取って裕福になったそうです。

 ジル・ド・レの行ったことは許されることではありませんが、宗教対立や戦争、疫病や権謀術策が渦巻く時代において、闇の道へ走っていってしまった事は理解できないことではないように思えます。祖父によって少しばかり歪んでしまったものの、彼は信仰深い面もあり、ジャンヌ・ダルクを心から信頼していました。しかし、ジャンヌが火刑されたことにより、ジル・ド・レは神に裏切られたと感じ、心底神を恨むようになったとされています。錬金術や黒魔術、少年虐殺を行ったのは、神を冒涜したいという思いもあったのではないでしょうか。
 正に光と闇は紙一重。コインの裏表のように変わりやすいものなのだなぁ・・・。と思います。

→ ジャンヌ・ダルクについての絵画を見たい方はこちら

 

【 コメント 】

  1. 管理人:扉園 より:

     >> 季節風様へ
    こんばんは^^
    彼の悪行は許せられるものではありませんし、高い地位にいたから「犯人だと分かっていても、きっかけがなくしては逮捕できない」という社会も問題がありますよね。
    王政、貴族社会は今以上に大変です。
    ヘンリー八世も愛憎劇を繰り広げ、多くの女性を犠牲にしていますよね…。

  2. 季節風 より:

    ジャンヌ・ダルクの死にそうとう傷付いたんでしょうけど身分の高さを凄い悪行に利用して最悪です。「エミール・バヤール作  1870年」ではまさに悪魔と友達状態。
    青髭はヘンリー八世にも似てます。

  3. 悪に強きは善にも強し。逆もまた…… より:

    ルオー、どこで観たか気になって調べてみたら……
    『拝啓 ルノワール先生ー梅原龍三郎に息づく師の教え』という展覧会でした。ルノワールの『パリスの審判』が観たくて行ったところ^^

  4. 管理人:扉園 より:

     >> 悪に強きは善にも強し。逆もまた……様へ
    こんばんは^^
    調べてみると、神奈川県の人間国宝美術館にルオーの「青ひげ」はいるようですね。初見でした。かなりインパクトがありました…。
    「見張り塔からずっと」の歌詞いいですね。国の栄枯盛衰の情景が目の前に浮かぶようです。二頭の馬がやってきて…。というシーンは良い絵になりそうですね^^
    ぜひ詩&挿絵を待っています!(笑)

  5. 悪に強きは善にも強し。逆もまた…… より:

    ジル・ド・レはペローの『青ひげ』のモデルとして知りました。
    そして、『青ひげ』はルオーの絵画で。どこだったか忘れましたが、美術館で偶然見かけたのです。
    『青ひげ』は、込められた寓意はどうでもいいのですが(←おい)、二頭の馬を遠くに探すという構図が好きで(というのはボブ・ディランの『見張塔からずっと』の影響もある)、詩のモティーフにしたことも。
    いつかその詩に挿絵を描きたい……

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