ネロ帝の絵画14点。母と師を殺めキリスト教徒を迫害した、暴君とされるローマ皇帝 | メメント・モリ -西洋美術の謎と闇-

ネロ帝の絵画14点。母と師を殺めキリスト教徒を迫害した、暴君とされるローマ皇帝

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 ネロ(37-68年)はローマ帝国の第五代皇帝で、暴君として知名度が高い人物です。
 母はアグリッピナで父はグナエウス。アグリッピナは夫の死と現皇帝カリグラの死により、新しく皇帝となった叔父のクラウディウスと結婚する事になりました。彼女の陰謀によってネロは後継者の第一候補となり、毒キノコ中毒でクラウディウスが急死すると、ネロは弱冠18歳で王位を手に入れる事になりました。その死はアグリッピナが関与しているという説が有力のようです。

 皇帝となったネロは家庭教師である哲学者セネカや、近衛長官のセクストゥスの意見を訊き、始めこそは善政を行っていました。しかし、母との確執や愛人問題によって狂っていってしまうのです。ネロは妻オクタウィアそっちのけで解放奴隷の娘を愛人としていたので、アグリッピナはそれを咎めます。口うるさい母を疎ましく思い始めていたネロは、母を宮殿から追放したあげく、二番目の愛人にまたも口出ししてきた母を殺害してしまいます。

 セネカや外の指南役も引退してしまい、指導する者がいなくなったネロは暴走し、オクタウィアを殺して後妻を娶り、多くの議員と共にセネカを殺し、ローマの大火をきっかけとしてキリスト教徒を迫害します。しかし、民衆の支持率が低下したネロは、68年に元老院に「国家の敵」とみなされてしまいます。ローマ郊外の解放奴隷の家へと逃げたネロは騎馬兵がやって来る音に恐れ、奴隷に命じて自分の喉を切らせて自害したとされています。母や妻や反ネロ派を次々と殺し、残虐な暴君とされたネロでしたが、彼の死に悲しむ者は多く、沢山の花や供物が墓へ供えられたそうです。
 では、皇帝ネロの絵画14点をご覧ください。

 

「ピーテル・パウル・ルーベンスの追随者作  17世紀」
母アグリッピナの陰謀により、皇帝となるべく仕立てあげられた存在
であるネロ。18歳で即位した彼は、指南役セネカや母、他の人達の
意見も聞き、素晴らしい治世を行っていました。
がっちりというか、ぽっちゃりめの少年の姿で描かれていますね。

「アブラハム・ヤンセンス作  1618年」
こちらも体型が立派で、不機嫌そうなネロの肖像画。
政治を操りたい母アグリッピナはネロにあれこれ指図をしますが、
自我が強い彼は徐々に母の意見に反発するようになります。

「Antonio Zanchi 作  1631-1722年」
二度の愛人問題により堪忍袋の緒が切れたネロは、遂に母を殺害
してしまいます。自分を暗殺しようとしているという容疑をかけ、
近衛兵を差し向けて殺してしまったのです。
だいぶネロ帝の容姿が美化されているような・・・。

「ピエトロ・ネグリ作  1628-79年」
始めは壊れやすい船に乗せて溺死を狙ったそうですが、アグリッピナは
泳ぎが上手だったようで、生還してしまいました。そこで、ネロは
近衛兵を送る事に決めたそうです。たくましい母上・・・。

「ユージーン・アペール作 1814-67年」
亡くなった母を見るネロという主題は、画家に好まれていたようで
何枚かの作品が残されています。どれも演劇めいており、ドラマチック
に描かれている印象ですね。

「Antonio Rizzi 作  1869-1940年」
アグリッピナは殺される前、「刺すならここを刺しなさい。ネロはここから
生まれて来たのだから」と腹を指さしたとされています。
倒れ伏す母を見つめて、ネロは何を思っているのでしょうか・・・。

「ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作  1878年」
母を殺めて悩みに耽る皇帝、という題の作品。ラファエル前派の巨匠
ウォーターハウスは肉親を殺めたネロの葛藤を表現しています。
怒りに任せた凶行の後、このように悶々としていたかもしれません。
その後、ネロは狂気の道へと進んで行ってしまうのです。

「ユベール・ロベール作 1733-1808年」
64年にローマ市内で大火災が発生。ネロは直ぐに救助や対抗措置を
行い、周辺からは賞賛を受けますが、火災の原因はネロという噂も
あります。その理由は「ローマの街を一新したかったから」
・・・うーん、真相はどうなのでしょうか。

「カール・フォン・ピロティ作  1861年」
ネロは大火災の元凶がキリスト教徒にあるとして、迫害を始めます。
聖書の外典によると、十二使徒の一人ペトロも殉教した一人とされて
います。それにより多くのキリスト教徒の命が絶たれました。

「Jan Styka 作  1900年頃」
芸術や歌が好きで目立ちたがり屋だった彼は、定期的にコンサートを
催していました。オリンピア競技に出場したネロは、脱落しようが
何だろうが無条件で優勝扱いをされたそうです。
噴火山をバックに、虎を従えるネロ帝・・・。渋いです。

「ウィルヘルム・ピーターズ作  1900年頃」
剣闘士の試合を見学するネロと後妻ポッパエア。
剣闘士での敗者の生死は、皇帝の判断に委ねられます。
親指を上向きにすれば「生」、下向きにしたら・・・ぶるぶる。
→ 剣闘士についての絵画を見たい方はこちら

「Eugène Romain T
hirion 作  1839-1910年」
ネロ帝の時代、コロッセオではキリスト教徒達を野獣の中へ閉じ込め、
やられる様を見学するという残虐な催し物も行われたと考えられています。
作者は悲惨さを描きつつ、キリスト教の聖なる殉教を表しておりますね。

「ジャック・ルイ・ダヴィッド作  1773年」
65年に別の者を皇帝に擁立する計画が発覚し、ネロは多くの
議員達と共に、指南役であったセネカにも自害を命令します。
セネカは風呂場で静脈を切って息絶えたとされています・・・。

「Vasily Sergeyevich Smirnov 作  1888年」
沢山の命を奪ったネロ帝にも最期の時が訪れます。ガルバを皇帝と
擁立した元老院達が武力によってネロを陥れようとしたのです。
ネロは自分を短剣で刺すよう奴隷に命じ、命を絶ちました。30歳でした。

 始めは善政を敷いていたのにも関わらず、歴代の暴君の一人となってしまったネロ帝。
 その原因は母アグリッピナや愛人問題だけではなく、後妻となったポッパエアにもあったそうです。彼女はアグリッピナを殺害するよう、前妻のオクタウィアを自害させるよう、ネロをそそのかしたと一説には考えられています。キリスト教徒を迫害するよう入れ知恵したのもポッパエアとされており、ネロは後妻に動かされていたのです。しかし、ポッパエアは口論の際に怒ったネロに蹴られ、死を迎えたという説もあります。

 自分を操ろうとした女性を殺してしまう。この展開は母アグリッピナの境遇と似ているような気がしますね。ネロがポッパエアを妻として選んだ理由は、無意識に母に似ていると感じた為ではないか、と勘繰ってしまいます・・・。大好きだけど、思い通りにならないから嫌い。だから消す。ネロは母アグリッピナの強すぎる干渉により、大人になりきれなかったのかなと思います。
 もしかしてネロが現代に生まれていたら、俳優やアーティストとして活躍していたかもしれませんね。礼儀不作法で年配者には嫌われるような気がしますが、一定の若者にカルト的な人気が起こりそうです・・・。

 

【 コメント 】

  1. 管理人:扉園 より:

    >> 録画したまま……買ったまま……様へ
    こんばんは。
    最近ネロ帝に関するテレビがやっていたんですね!見ていないや…(^^;
    買ったのに読んでいない書籍は私も沢山あります。
    読むスピードより買う量が勝ってしまうんです…。
    悪意&ロマンは両方あると思いますw
    全く顔が違うやん!という画家もいますよね。
    ネロ帝の胸像を見てみると、Jan Stykaさんが一番似ているかな…。

  2. 録画したまま…… 買ったまま…… より:

    こんばんは。
    こないだ録画した、ネロ帝に関するテレビ番組をまだ観ていない……
    そして、だいぶ前に買った戯曲集に入っているカミュの『カリギュラ』も、まだ読んでいない……
    ところで、ネロ帝の容姿……
    はじめの二つの画家に悪意があるのか、はたまた後世の作品にロマンがあるのか……?

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