セネカ (紀元前1世紀頃-65年) はローマ帝国時代の哲学者、政治家、作家です。
裕福な地主の次男としてコルドバで生まれたセネカは、10代前半の頃にローマへ移り、教養や雄弁術、哲学などを学びました。しかし、20代の時に大病を患い、療養を兼ねてエジプトのアレクサンドリアへと遠征します。そこでも多くの事を学んだセネカは、十年後にローマへと戻って財務官職を経験した後、元老院議員として選出されます。
カリグラ帝、クラウディウス帝の治世共に命の危機を乗り越え、セネカはクラウディウスの後妻となったアグリッピナの後ろ盾を得て法務官へと任命されます。アグリッピナは陰謀によって息子ネロを皇帝に仕立てあげ、その家庭教師にセネカを付け、執政官としての役割もセネカに与えました。セネカや外の人々のサポートもあり、ネロは五年の間善政を築きます。しかし、愛人問題により親子関係に深い確執が生じ、アグリッピナはネロの奸計によって殺されてしまいます。次第に暴君として振舞うようになったネロに対してサポートをしきれなくなり、セネカは政界の引退を申し出たのでした。
家にこもったセネカは幾つかの作品を執筆し、そのまま余生を過ごすつもりでいました。しかし、引退の三年後、彼に悲劇が起こります。ネロを退位させようという陰謀が露見し、その中の一人が「セネカも加担していた」と自白したのです。ネロは自宅に役人を派遣し尋問しましたが、セネカの対応が曖昧だったので自害を命じました。セネカは始めドクニンジンを飲んで中毒死しようとしましたが、死に切れず、風呂場で静脈を切って命を絶ったとされています。セネカが実際に陰謀に加担していたかどうかは、未だに分かっておりません。
では、波乱の時代に生きた哲学者セネカの絵画14点をご覧ください。
「中世の彩色写本の挿絵 1325-35年」
プラトン、セネカ、アリストテレスの肖像。哲学者三位一体です。
プラトンはアリストテレスの師であり、セネカはアリストテレスに
影響を受けていました。哲学は難しい学問の一つですが、
彼等は生粋なる世界の真実を追い求めていたのです。
「Pedro Berrugueteとヨース・ファン・ワッセンホフの合作 15世紀」
セネカは「知恵は何物にも勝る」という思想のストア派の哲学者でした。
判断の誤りは破壊的衝動より出ずる為、道徳、知的に完全であれば、
過ちを犯さないという思想で、セネカは知恵を追い求めていました。
「ピーテル・パウル・ルーベンス作 1577-1640年」
指南役セネカと教え子ネロ。アリストテレスの教え子は
アレクサンドロス大王で、彼は偉大な功績を残しました。
師弟関係もずっと良好だったそうです。しかし、セネカとネロの関係は
始めこそ良かったものの、最悪な結果を迎えてしまったのでした。
「マニュエル・ドミンゲス・サンチェス作 1871年」
ネロを王位から落とそうとする陰謀が発覚し、それにセネカが関与
しているとされ、その罪により自害を命じられてしまったのです。
ドクニンジンでは死に切れず、彼は風呂場で血管を切って
息絶えるのでした。以下、セネカの死の絵画が続きます。
「ルカ・ジョルダーノ作 1660年」
セネカの死は画家に人気の主題であったようで、想像以上に多くの
作品が残されていました。時代も17~20世紀と幅広いです。
こちらの絵画は死の淵にいるセネカから、若者達が哲学的な
お言葉を頂いているようです。
「ルカ・ジョルダーノ作 17世紀」
ジョルダーノさん二枚目。この時代の絵画は受注製なので、
セネカを尊敬しており、部屋に飾りたいと考える依頼者が沢山いた
という風に考えられますね。尊敬する人の最期のシーンを
部屋に飾るというのはどうかと思ってしまうのですが・・・。
「ルカ・ジョルダーノ作 1684-85年」
ジョルダーノさん三枚目。やたらと依頼が入っていたようですね。
上記二枚とは異なり、人物にフォーカスを当て、ドラマティックな構図
を狙っています。足の血管を切る青年も悲痛な表情を浮かべています。
「ノエル・ハレ作 1750年」
こちらは若く見えるセネカ。享年は判然としませんが、65歳前後で
あったとされています。ローマ時代では40代程度が平均寿命
(乳幼児死亡率を除く)であるそうですので、かなり生きた方でしょう。
「Matthias Stom 作 1600-50年」
確証はありませんが、アリストテレスは62歳、ソクラテスは70歳、
プラトンは80歳生きたとされており、哲学者は結構長寿なんですね。
戦争で平均寿命が低下しているから、普通に暮らしていたら
ローマ時代でも現代の平均年齢くらいになるのかもしれませんね。
「Cristoforo Savolini 作 17世紀」
こちらはもう失血状態で死の寸前であるセネカ。バロック調の重厚な
絵画ですね。頬杖を付いている赤い服のお兄さんのすまし顔が
ちょっと気になります。・・・悲しんでいるのかしら?
「ジョセフ=ノエル・シルヴェストル作 1847-1926年」
こちらは失血状態にありながらも、力強く自説を唱えている覇気ある
セネカ氏。オーバーともとれる人々の動きや表情で、劇的で緊張感の
ある作品を生み出しています。足もびしっと合わさり、たくましいお姿です。
「ピーテル・パウル・ルーベンス作 1615年」
ルーベンスも負けじとセネカのたくましい姿を描いています。
セネカは死の間際、こう言ったそうです。「ネロの残忍な性格であれば、
弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する
以外に何も残っていない」と。深い絶望が表れています・・・。
「マテウス・メーリアン二世作 1645-46年」
そんな悲劇的な最期を遂げたセネカでしたが、その著書は多くの
人々に読まれる事となり、偉大なる哲学者の一人として数えられる
事となりました。こちらはセネカの胸像を指す自画像。
師匠セネカのようになりたい。といった画家の意志が感じられるようです。
「ピーテル・パウル・ルーベンス作 1611年」
四名の立派なダンディに目が行きますが、セネカは右上の彫刻です。
「四名の哲学者」という題の作品で、ルーベンスが亡くなった学者の
お兄さんの為に描いた作品。左から二番目がお兄さんなのです。
偉大なるストア派の哲学者とされているセネカですが、彼にも黒い噂が付きまとっています。
プブリウスという人は「哲学者なのに野心家で強欲、無実の罪をでっち上げて多くの人々を冤罪に貶めたことで財を成した」と言っていますし、ネロの母アグリッピナの殺害を「ローマ市民同士の戦争を避けるため」と容認したともされています。不祥事や横領の罪で告発されていますし、死の原因となった陰謀に加担したことは、本人は容認していないものの、否認もしていません。
しかし、それらは政敵が彼を貶めようとして、でっち上げた物が多いように思われます。平気で人を騙し、蹴落とし、殺した時代。悪評被害は多分にあったことでしょう。しかし、セネカとてこの世界で生き抜く為には、全くの無実という訳にはいかなかったように思います。心を鬼にして、厳しい政策をしたこともあったのでしょう。どの情報が真実なのかは今では闇の中です。
ネロ帝に自害を命じられて生を終えたとはいえ、65歳前後まで生きていた事は凄い世渡り技術のような気がします。
→ ネロ帝についての絵画を見たい方はこちら
【 コメント 】